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「……」
アシャは水槽の一つ一つを見て回った。
二日前までは空っぽだった五つの水槽に、今は五人の男女が横たわっている。額に薄い膜のような輪を嵌め、輪からは細い線が出て水槽の一部に繋がっている。
洗礼を受けている最中の『銀の王族』達だ。
「こいつは…」
中の一人に見覚えがあって、アシャは立ち止まった。
ユーノと同い年ぐらい、淡色の髪の少年だ。他の『銀の王族』の例に漏れず、幸せそうな笑みを浮かべて眠っている。
彼らの頭に今送り込まれているのはラズーンの歴史であり、送り込みが終わった後に、それを鍵として目覚める『銀の王族』としての知識と経験こそが、ラズーンを復活させる『呼び水』、同時に彼らが『銀の王族』としてふさわしいかを確認する心への審問だ。もちろん、肉体的な種の記憶は、既に彼らの細胞から採取され、記録され、蓄えられている。
(ハイラカ、だったな)
アシャは少年の名前を思い出すと同時に、その場を離れた。向かったのは、五つの水槽の一番端、四日前から眠り続けている『銀の王族』、ユーナ・セレディス。
「ユーノ…」
自分の声が深い憂いと切ない甘さに潤んでいるのがわかる。
透明な水色の液体の中、ふんわりと浮いている華奢な体の右肩からは、銀色の泡が煌めきながら浮き上がっている。再生率はやっと半分を越したばかり、意識もまだ戻っていない。だが、約束通り、その額には、他の者達と同様、透き通った薄い膜のような輪が嵌まっており、『銀の王族』としての洗礼が始まっていることを示していた。呼吸はやや荒く、時折苦しそうに眉がひそめられる。他の『銀の王族』にとっては幸福な面白い昔話と感じるようなものさえも、傷ついて回復途中のユーノにはかなりの負担になっていることは間違いなかった。
「ユーノ………」
眉を寄せる。心がねじ切られていく苦痛を、アシャはじっと耐えた。ユーノを見ている限り、守り切れなかった罪悪感と、かけがえなく愛おしい存在を死地へ追い込まなくてはならない負い目に責め立てられるだろうとわかっていたが、側を離れる気にはなれなかった。
今すぐこの輪を外してやれば、ユーノは楽になるだろう。そして、ラズーンは貴重な知識を奪われ、やがてそれは『運命』の暗躍を助長していく。
それに、今ユーノから輪を外してやったとしても、彼女の助かる確率が上がるわけでもないことを、医術師としてのアシャは哀しいほどに理解している。
(ユーノ!)
今すぐ苦痛を取り除いてやりたい、それは愚かで甘い、その場しのぎの自己欺瞞だとわかっている。理性ではそうわかっている、わかってはいるが。
(代われるなら、俺が代わってやりたい)
拳を握りしめ、食い入るようにユーノを見つめた。
蒼白く血の気を失った唇は微かに開いて、透明な『マスク』の中で呼吸を続けている。細い腕が液体の中で波間に弄ばれる海草のように、ゆらりゆらりと上下している。
ユーノをもう一度、命あるものとして抱き締められるなら、アシャは何を惜しむだろう?
(ユーノがもう一度俺を見るなら……もう一度俺の名を呼ぶなら)
しかめた眉を少し緩めた。切なくて苦しくて、身動き出来なくて竦んでいく自分が信じられなくて認められない。
泣き出しそうなのだ、と感じた瞬間にアシャは首を振った。
目に見えぬ大きな力と取引する。
(どんな代償だって払ってやる)
「…戦いの果てに
人の心は荒れ
生き物は己の姿を忘れて久しく
聖なる宮に籠りし者のみ
世を伝えんとして
生命刻み
生命重ねる……」
ジノの声は哀調を帯びて、聴く者の心に沁み入った。
第三弦を鳴らさぬ代わりに、時折響く六番目の音は、時の流れを表してか、一定の間隔をおいて響き、落ち続ける水滴が、水盤に一滴二滴とその形を穿つようにも聞こえた。
「…いつしか
荒廃の世
古い息吹き浴びて
蘇らんとすれども
なお運命は激しく
宮に籠りし者の心に
呪いの血を吐く
かくして人の世の定めは
宮に籠りし者の心に芽生え
育ち、波立ち、
ついに宮の者もその生を果つ
地は太古生物跳梁し
天の嘆き深く
一つの星を送られん
ラズーンの
性のない神は目覚めの時を迎えたり…」
それはどこから来た人々であったのか。
或いは、彼らこそが『神』だったのかも知れない。
荒廃の世界へ降り立った来訪者は、すぐに小部屋を見つけ、入り込み、そこで起こったことの理解を得た。人がいない間も、永久動力で動き続ける装置を見つけ、何が行われようとして果たせなかったのかを察した。
彼には、それを止めることもできたはずだった。
だが、その時、再生されつつある一つのカプセルに目を止め、その子どもに何を期待したのだろう、子どもが大きくなるのを待って、小部屋を制御する術を教えた。同時に、孤独に揺らがぬ精神を鍛える術、自分が見て取った世界の状態なども教え込んだ。
装置を止めてしまう代わりに、再調整した種の記憶を元に、新たに正常な生命を再生し、まずは子どもの周囲を落ち着かせ、やがてその外側に新たな国を造り、王を選び、任せ、そうして、子どもと一緒に、世界の仕組みを一から造り上げていった。
この装置では二百年しか、正常な種の記憶を保つことができない。
来訪者はそう告げた。
だから、二百年たったら、お前は新たに種の記憶を補充するとともに、世界の状態を知るために、世に散らばった人々の幾人かを集めなくてはいけないよ。
でも、と初代の『太皇』は不安がった。
どうして私がなし得ましょう。私は無力な人間の一人に過ぎません。
それでは、お前と一緒に、もう少しこの世を整えることにしよう。
来訪者は約束した。
そして、視察官が造られた。
再生された生命体の中で、精神が強いものは金のオーラを放っている。彼らを集めて武術医術を修めさせ、中央の秘密をある程度まで教えて、世界の様子を見に行かせるのだ。また、その中から次代のお前を選び出せばよい。
次に『銀の王族』が造られた。
特に種の記憶として見事な、整ったものを持っているものには、銀のオーラ、それも視察官が探し求めた時だけ、視察官に見えるようなオーラを持つように、特殊な形質を付与しよう。言わば認識票としてだが、それを持つ者に対しては攻撃しにくくなるように、他の者に条件づけをして、その一族が絶えないようにすればよい。
二百年毎のラズーンの種の記憶が崩れる時に『銀の王族』、つまり種の記憶を極めて良好な形で保存している生きた器を、視察官に集めさせてラズーンへ連れてこさせ、その際に種の記憶を細胞から、世界の状況をその者の記憶から、それぞれ記録すればよいだろう。
そして、人間の崩れ、亜種としての『運命』は施政を一部分担させればよい。時に、あからさまに動かしては反発ばかりが大きくなる、施政の裏側の力として。闇の駆け引きを支配するものとして。
そうして、来訪者は去って行った。
残された人間は、死に絶えかけた世界を再生し始めた、その小部屋、『氷の双宮』のもとに。




