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「ジノ。ジノ・スティルはいませんか」
「はい、姫さま。ここに控えております」
どこから姿を現したのか、一人の娘がリディノの前に跪いた。頭に深草色の布を巻き、薄緑の長衣に深草色の帯を締めている。深々と頭を下げると、黒い髪がさらさらと肩に触れて音をたてた。眩げに見上げた目は、やや重くも見える濃い青だ。
「御用でしょうか、姫さま」
「詩をうたってほしいの。構わない?」
尋ねるリディノに熱心に頷く。
「はい、もちろん」
「ユーノもアシャ兄さまもまだ帰ってきてないわ」
リディノはゆっくりと歩いて回廊の窓に近寄った。ジノが静かに目で追ってくる。
「もう、5日にもなるのに……」
憂鬱な顔で梢から漏れる日差しを見上げ、リディノは呟いた。
「おとうさまもイルファもレスも沈んでしまわれて……まるで屋敷が死んだよう……鳴き鳥の声も聞こえないわ」
「鳴き鳥は、ラズーンに次々集まってくる見知らぬ『銀の王族』に怯えているのでしょうよ、姫さま」
ジノがリディノの気持ちを引き立てるように応じた。
「そうね………でも、おとうさまの話では、これまで、これほど『銀の王族』が集まったことはなかったそうよ。それに、これまでなら、連れてこられた視察官の方ともども、四大公のどこかの屋敷にお泊まりになるのが常なのに、半分近くの方々が、まっすぐに『氷の双宮』に入られるとか……泊まられた方も……ほら」
肩越しに視線を投げて、リディノは思い出させるように続けた。
「昨日来られたハイラカと呼ばれた『銀の王族』の方も、今朝すぐに『氷の双宮』へ向かわれたわ」
「そうですね、それに…」
ジノも考え込んだような色を、日に焼けた顔に浮かべた。
「『氷の双宮』へ『銀の王族』を連れて行かれた視察官が、すぐに又、ラズーンを出発されるのも珍しいと聞きます」
「一体どうしたのかしら」
リディノは白い指先を軽く頬に当て、ほうっと溜め息をついた。
「諸国の忠誠を知るには大げさすぎるとは思わない?」
「……でも、このような動乱の世ですから……」
ジノはリディノの抱いた不安を、何とか和らげようとするように言った。
「乱れた諸国の現状を、よりよく捉えようとなさっているのではありませんか、『太皇』は」
「そうね…」
リディノは小さく息をついた。
「そうかもしれないわね」
「はい」
「……じゃ、ジノ、こちらへいらっしゃい。おとうさま方は私室にいらっしゃるのよ。私室で詩を聞かせてちょうだい」
「はい」
再び深々と頭を下げて、ジノは立ち上がった。
ジノはリディノづきの詩人、幼い頃は乳兄弟として育ち、2つ年上のリディノを、ジノはこの上なく尊敬し、愛してくれている。
「おとうさま?」
リディノは公の私室に入り、正面の豪奢な織の敷物の上で、所在ない様子で物思いにふけっている父親に声をかけた。その右に寝そべっていたイルファ、隣で中に羽毛を入れ、ふっくらと仕立てた枕を抱いて丸くなっていたレスファートも目を上げる。
イルファの前の酒と食べ物には手がつけられていなかったし、レスファートの側の皿に盛られた色とりどりの果物も、少年の食欲を誘っていなかった。泣きこそしていないが、眠れない夜を過ごしているらしいレスファートの疲れた顔が痛々しく、リディノはそっとその側に座り、少年の髪を撫でてやった。レスファートは身動きもせず愛撫を受け止めていたが、じっとリディノを見つめる目が決して寛いでいないことを示している。
「ふさいでいてはだめよ」
リディノもユーノやアシャのことが気にかかる、だがリディノは強いて明るい笑みを浮かべた。確信ありげに頷きながら、
「アシャ兄さまがついていらっしゃるのだから、絶対、大丈夫よ」
ジノを振り返って合図し、相手が入り口近くに座るのに優しく命じる。
「何か詩って、ジノ」
「何をご所望でしょうか、姫さま」
「そうね…」
迷って、部屋を見回したリディノの目に、中央の弦が切れたままのアシャの持っていた立風琴が映った。立ち上がって近づき、そっと取り上げ、ジノに渡す。
「アシャ兄さまのために、これで何か…」
「第三弦が切れていますね」
ジノが静かに受け取る。
「張り直しましょうか、新しいのに」
「いえ!」
自分でも意外なほどの強さでリディノは応じた。
「そのままでも弾けるのを」
「はい」
ジノは逆らわずに、他の四本の弦を一本ずつ弾いていきながら尋ねた。
「しかし、第三弦が切れているとなると、恋歌は無理ですね」
「一つも?」
「ええ。少なくとも、私の知っている限りでは」
リディノはジノのことばに切なく瞳を曇らせた。側に居ないアシャ、戻ってこないユーノの背後にレアナの影を感じ取る。リディノの想いは実らない、そう改めて示されたような気がして、急いで口調を変える。
「祭りの歌は?」
「無理です……おや、ほんとだ」
ジノは反射的に応えて不思議そうに首を傾げた。頭の中でさらうように少し目を閉じ、幾つかの詩をぶつぶつと口の中で呟いたが、首を振って目を開け、許しを請うた。
「私の未熟な腕をお笑い下さい、姫さま。第三弦が切れている以上、この立風琴で私が弾けるものはたった一つしかありません。どうか、他の立風琴を使うことをお許し下さい」
「たった一つとは?」
好奇心にかられて、リディノは問いかけた。
「姫さまのご所望には合いません。どうか、他の立風琴を…」
「何なの? 言ってちょうだい、ジノ」
「………『創世の詩』です」
リディノはゆっくり瞬きした。
「『創世の詩』…」
「はい」
「……わかりました。では、それを、ジノ」
「……はい」
ジノはなおも応じかねる様子だったが、やがて諦めたように立風琴を抱きかかえた。切れた第三弦を、邪魔にならないように上と下の枠に巻き付け、しばらく調弦を行う。イルファが体を起こし、レスファートが膝を抱えてジノに向き直った。少年の側に、リディノがドレスの裾を広げ直し、ふわりと座る。
ミダス公がなぜか物憂げな目を上げ、聞こえるか聞こえないほどの声で「運命…か」と呟く。
「それでは」
ジノは少し胸を張って息を吸い込んだ。丁寧な手つきで、第一弦、第二弦、第四弦、第五弦と弾いていき、第一弦の押さえ方を変えて、非常に高い第六番目の音を出した。そのちょうど一回り下の音に、声の調子を合わせる。
「それは彼の夜
時の果てのこと
まだこの世に光なく
闇もなくして
運命もなき夜のこと
死に絶えようとした世を
救うためにつくられた
彼の地ラズーン
神おわす地の創世の夜……」
ジノの朗々と張った声は、ゆっくりと創世の伝説を語っていった。




