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「…」
しばらく佇んでいたアシャは、首を振って歩き出した。今はそんな感傷に浸っているときではない。
急ぎ足で噴水を回り、『氷の双宮』の右の宮へ向かう。長い間、誰も歩かなかった石畳を踏み、静まり返った階段を上がり、遥か見上げるような巨大な柱の間を通り抜け、右の宮の扉の前に立つ。アシャの目が再び光を帯びる前に、扉はゆっくりと内側に開いた。
「ふ…」
アシャは、思わず安堵の笑みを漏らした。慣れ親しんだ場所、怯むこともなく建物の中に入っていく。
一転、建物の中には、真昼のように煌煌と明かりが灯っていた。窓のない壁面には、外側と同じように、溢れ乱れる水の流れが浮き彫りにされている。
宮の中の明るさの光源はどこからとも判別つかない。火皿らしいものも、松明も見当たらない。強いて言うなら、壁そのものが光っているように見える。
アシャはためらうことなくまっすぐ柱廊を進み、奥へ奥へと入っていった。外側から見ると、それほどの大きさがあるとは思えなかったが、アシャの脚でも奥へ突き当たるには時間がかかる。高い天井、眩い視界、光の中を歩み続ける不安定さ、床の上に点々と滴った血は、誰が拭き取ることもないのに、しばらくすると自然に薄れ消えていく。
いや、この宮の中だけではない。ラズーンの内壁の中で、あの石畳に落ちた血痕も、今頃は跡形もなく消えていっているだろう。なぜなら、白っぽい石と見えたものは、石のように見えるが石ではない、異質な物質だから。
アシャは奥の玉座に辿り着くと、左右に垂れ下がっている真紅の光沢のある布を見つめた。ゆっくり右の布の後ろへ回る。裏には小さな窪みがあった。ちょうど布で隠れるような、人が3人ほど立っていられる空間だ。
アシャはそこに入り込み、ユーノをそっと抱き直した。呼吸はさっきよりもなお微かになってきている。心臓の鼓動が弱くなっているような気がする。青ざめた額には玉のような汗がびっしりと浮かんでいて、少し開いた白い唇が震えながら弱々しく空気を求めている。
「ユーノ」
「…」
「ユーノ!」
「…」
反応はなかった。急がなくてはならない。
アシャはユーノを抱えたまま、背中から壁にもたれた。すうっと体が下降するような妙な感覚、窪みがいきなり下へ沈み、目の前で床が競り上がっていく。
下降する感覚が続いたのはわずかだった。ふ、っと浮遊感が消えるとともに、体の重みが戻ってくるともう、アシャは飾り気のない、四角い部屋に居た。
「………」
今まで乗っていた窪みから降り、部屋に脚を踏み出す。背後で乗ってきた窪みが再び音もなく上がっていく。それを無視して、アシャは歩き出した。
部屋は金属の箱のようだった。つるりとした信じられないほど凹凸のない壁、同じく傷一つない滑らかな天井、床は上の階よりなお一層独特の光沢をもって発光し、中央には水のように透き通った球体が、細い金属の三本の脚に支えられて浮いている。導師の持つ水晶に似ていなくもなかったが、目を凝らして中心を見ようとすると、もやもやとしたものに目をそらされて、どうにもはっきり見えない代物だった。
アシャは透明な球体の前を横切り、右端、縦長に口を開いている空間へ向かう。脚を踏み入れたとたん、ぱっと部屋が明るくなった。
その部屋は奇妙な部屋だった。
水晶の水槽のようなものが五つ、等間隔に置かれた鈍い銀色のベッドの上に載せられている。水槽の一つ一つにいろいろな線が繋がり、入った正面の壁一杯に広がる金属の壁に接続している。壁には揺れる針や上下する色とりどりの棒、幾つものボタンと奇妙な形の取っ手、明滅する球体や立方体などがはめ込まれている。
水槽はどれも空だったが、それぞれに淡い水色の液体をなみなみとたたえており、時々銀色の泡がぷくぷくと浮かび上がり躍っている。
「……………」
アシャは黙々と近くのベッドに近寄った。しゃがみ込み、膝にユーノの体をもたせかける。ボタンを押して、水槽の蓋を開ける。中に沈んでいた、管のついた透明な歪んだ半球形のものを引っ張り出し、他のボタンを押す。と、管の中を白銀に光るものが移動して、半球形の中に溢れ、満ちていた水を押しのけた。
シュウシュウと攻撃に移ろうとする蛇、ヤルンゴのような音をたてる『マスク』を、アシャは静かにユーノの口に当て、端についていたベルトで留めた。ちょうど、ユーノの口元を、その『マスク』が覆う状態になる。
「は…ふっ…」
今にも途切れそうになっていたユーノの呼吸が、ふいに目覚めたように大きくなった。胸が何かに押し上げられるようにゆっくり上下し始める。真っ青になっていた頬に微かに赤みがさしてくる。
「…よし…」
小さく吐いて、アシャは再びユーノを抱き上げ、そっとその水槽の中へ入れた。溢れるかと思われた水は波打ちながら水位を下げる。普通の水ではないのだろう、びくりと体を震わせたユーノは、底まで沈むこともなく、ふんわりと中程に浮いている。『マスク』の中に水は入り込まない。ぼんやり見開かれていたユーノの目が、水色の液体越しにアシャを見つめたが、再び眠たげに閉じられる。
「……」
アシャは水槽の蓋を閉め、壁の計器とベッドの計器をチェックした。
(うまくいって、助かる率は2割…)
ラズーンの最新設備でそうなのだから、後は神に祈るしかない。
「は…あっ」
重く深い息を吐いてベッドに手をついた。緊張がなくなったわけではない、打つべき手がこれ以上ない、その苛立ちがアシャの心身を憔悴させている。
「っ」
突然背後に気配を感じ、アシャは体を起こして振り返った。
いつの間にか、入り口に1人の老人が立っている。白い長衣、白い髪に白く長い髭を垂らし、肩に真白のクフィラを止まらせている。
「久しぶりじゃな、アシャ・ラズーン。我が息子よ」
「『太皇』……」
アシャは低い声で応じた。




