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アシャの腕の中のユーノは、浅くせわしい呼吸を続けている。ぼんやりと半開きになった瞳は虚ろな色をたたえて、どこか遠くを見つめたままだ。
全てを拒み、全てを投げ出す終末の色。
アシャが何度も向き合ってきた、濃厚な死の気配。
「ユーノ」
「…」
ぴくっとユーノの体が緊張し、微かに繋がる命の糸を切らないように、アシャは低い声で続けた。
「いい。答えなくていい」
「……」
ゆっくりとユーノの体から緊張が抜ける。軽く眼を伏せた幼い顔に、額から汗が伝わって流れ落ちた。
あの空き家からはそれほど遠くないはずの『氷の双宮』が、いつもより数倍遠くに感じられる。歩いても歩いても、白い石畳は夜の彼方へと続き、『氷の双宮』の真っ白な壁は見えてこなかった。反比例するように、腕の中の娘の命は刻一刻と削られ、その重みが増してきた。
「ユーノ」
「………」
やや遅れて、体が緊張を返す。
(さっきより反応が鈍い)
きりっ、と歯が鳴った。
歩きながら間隔をはかってユーノに呼びかけ、反応を見ていた。始めは微かに首を頷かせていたのが、数回前から僅かに体を緊張させるだけになり、その反応も呼びかけから次第に間隔が開くようになってきている。
「ちっ」
ねっとりと片腕を濡らすものにも、アシャは舌打ちした。
右肩の止血ができていない。かなり大きな血管、たぶん一本は動脈を破っていたから、包帯が役に立たなかった。縛り上げて圧迫するにも広範囲すぎる。それでなくとも、コクラノの槍傷でぼろぼろになっていた血管は、充分に回復しきっていない。
(おまけに剣を捻られて)
身震いするような思いで荒々しく考える。単に傷を貫くだけならまだしも、貫いた上で手元で剣を捻っていた傷、ショック死していなかったのが不思議なぐらいだ。
(そのまま、あんなところに運ばれて、放っておかれて)
激情が突き上げてきて歯を食いしばる。体は熱いのに、中を流れる血液が冷えて重くてなりどろどろ濁っていくような気がする。
あの家でよくもセータ・ルムを屠らなかった。自制する気はさらさらなかった。セータの命なぞゴミとしか感じなかった。
だが、あそこで殺してしまっては、ひょっとしてまだいるかも知れない裏切り者への手がかりが追えなくなる。最も憎むべき相手、最も責めを追うべき存在を見失ってしまう。
(そしてまた、ユーノが危険に晒される)
ただ、それだけの考えが、アシャの手を止めた。
「!」
ずるりとユーノの腕が滑り落ちて、アシャは我に返った。
「ユーノ」
「……」
反応がない。
「ユーノ!」
急ぎ足になりながら、声を大きくする。
「ユーノ!」
「う…」
抱え込んで押さえた手に、びくんとユーノが震えた。ふっと瞼が持ち上がる。黒い瞳が彷徨うように虚空を見つめ、やがてゆっくりとアシャを捉えた。
「…」
小さく開いた唇、笑ったか笑わぬかわからないほどの微かな笑みが、汚れた頬に滲む。
「っっ」
胸が詰まって、背筋に恐怖が走り上がる。泣きたいほどの愛おしさと、狂いたいほどの怒りと、それら全てに我を忘れて、抱え込み、絶叫したくなる。
「く、っ」
眉をしかめ、速度を上げた。
少しでも、少しでも早く、『氷の双宮』へ。
この娘を腕の中で失いたくないなら。
目の前にようやく、ラズーン中央部、『太皇』おさめる『氷の双宮』を囲む、白い壁が見えてきつつあった。




