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「こっちを向け」
「え、あ…」
首に刃を当てられたままで振り向けば、自ら首を切断するようなもの、男の戸惑いと恐怖に薄く嗤う。
「死にたいんだな」
ぐ、となおも強く剣を押し付けると、セータが絶叫した。
「わ、あっ! 向きます、向きます! だから、お願いです、その剣を緩めて、くだ…さいっ」
喉は既に朱色に濡れている。求めに応じて刃を少し離してやると、みるみる流れる血が増えた。
「な…んで……なんでこんな…小娘に…」
セータは泣き声だ。
「なんで、アシャ・ラズーンが…っ」
慌てて首の傷を手で押さえながら、ひい、と声にならぬ悲鳴を漏らしたセータの震える脚が今にも崩れそうだ。壊れかけた操り人形のようにぎちぎちと必死に振り向こうとする相手の側を、さっと通り抜けながら、数カ所の急所を一気に殴りつける。
「がぶっ…」
くるんと白目を剥いた相手が前へのめるのを、アシャはイルファに向かって押した。
「こいつを縛っておいてくれ。後でじっくり訊きたいことがある」
「あ…ああ」
イルファが呆れ返った顔でセータを受け止めた。
「お前、魔物の顔をしてるぞ」
満更冗談でもないそのことばは、もうアシャの意識には入らなかった。
床の上に倒れたまま、息を喘がせているユーノを覗き込み、用意の布を裂く。
「あ…あうっ」
止血薬をしみ込ませた布を右肩に巻くと、ユーノが小さく声を上げて仰け反った。
(やっぱり槍傷の中央を抉られてる)
顔が強張ったのがわかった。床に広がった出血量、忙しく浅い呼吸を繰り返す様子、傷の状況を改めて確認する。
(ここでは駄目だ)
胸の奥が氷河のように冷えた。
(回復どころか、保たせられない)
荒々しい呼吸を続けるユーノの、汗で濡れそぼっている髪をかきあげながら、静かに声をかける。
「ユーノ? わかるか、ユーノ?」
「あ…」
「答えなくていい。わかるんだな」
「ん…」
慌ただしく呼吸を続けながら、ユーノは弱々しく首を上下に動かした。少しほっとしながら、手持ちの袋から緑の粒を出す。
「痛み止めだ。呑めるか?」
「……」
半分意識がないのだろう、あやふやにユーノの首が上下に揺れた。見えているとは思わないが、頷き返してアシャは開いたままのユーノの口の中、舌の上にそっと薬を載せた。苦しげにもがいて口を閉じ、ユーノが顔を歪めて飲み下す。何とか喉を通ったとたん、はああっ、と深い息を吐いて、再び荒い呼吸に戻る。
「もう一粒」
「…ぐ…」
ユーノは目を閉じて唇をきつく締め、粒を呑み込んだ。呼吸を奪われたのと同じなのだろう、反動でしばらくはせわしなく呼吸し続けるだけ、アシャの呼びかけにも反応しない。次々と流れ落ちる汗が苦痛を物語る。
「…ユーノ」
堪え切れず、アシャはそっと、その頬に触れた。
震えながらぼんやり見開いた相手の眼の中を覗き込むように、ことばを繋ぐ。
「ちょっときついが、すぐ薬が効いてくる、我慢しろよ」
「…」
微かに首が縦に動いた。
その体の下へ静かに、けれど一歩も引くことのない強さで手を差し入れる。
「あ…!…!!……っ!」
上げかけた声を、歯を食いしばってユーノが堪えた。床から掬い上げられる動作さえ激痛を生むのだろう、ぎいっ、と歯のきしむ音がする。
「もう少し……よし…いいぞ」
「う…ふ…」
吐息とともに、ユーノはアシャの腕に頼りなく抱かれ、胸に頭をもたせかけてくる。細心の注意を払って立ち上がり、振り返る。
「イルファ」
「ん?」
「俺はこれから『氷の双宮』に行く」
セータを丁寧に馬に縛り付けていたイルファが、生真面目な顔で見返した。
「ここではユーノが保たない。あそこなら、何とか助かる」
「わかった。で、こいつ、どうする?」
「地下牢見つけて放り込んどけ。何があっても逃がすな。死なせるな」
声音は激していない、だが言い切ったことばの容赦なさが届いたのだろう、イルファがぞくりとした顔になった。
「それから、ミダス公に事情を伝えてくれ」
「わかったよ」
いつもなら俺もついて行くだの、二人きりになるつもりなのかだの、本気か冗談かわからない絡み方をされる状況だが、さすがにイルファも茶化す気にならないのだろう。
「充分わかった」
誓いを立てるように神妙に繰り返した。