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「悪いな…」
「……」
空き家の屋根の破れ目から差し込む月光に、一枚の黒い布になったような人影の低い掠れ声を、ユーノは夢うつつで聞いていた。
「はっ…はっ…はっ…」
荒い呼吸を続けながら、何とか相手の言っていることを理解しようとする。気持ち悪い汗が、体中をぐっしょり濡れさせている。剣に刺し貫かれた右肩は麻痺して既に感覚はなかったが、汗とは違う生暖かいものが絶え間なく流れ続けているのはうすぼんやりと感じていた。
「本当は、もう少し生きられるはずだったんだが……。ギヌア様が殺してはならんとおっしゃっていたから、このまま本拠へ連れていく予定だったんだ」
「は…、うっ」
乱れる呼吸に額から汗が流れ落ちていく。
「ギヌア様は先に戻られたから、あの包囲にはひっかかってはおらんよ」
男は含み笑いをしてユーノを覗き込んだ。
「お前は無駄死にと言う訳さ」
(裏切り…者…)
呼吸が苦しく、ことばにならない。必死に空気を求めるのに、いつまでたっても息苦しさはなくならなかった。
この空き家に運び込まれ、気がついてからずっとそうだ。
そればかりか、息苦しさはじわじわと増していって、呼吸を続けることさえ苦痛になりつつあった。息苦しさから逃れようと喘ぐ。喘ぐことが苦しくて、呼吸が止まりそうになる。呼吸が止まりそうになると、息苦しさに耐え切れず、できるだけの空気を吸い込まずにはいられない。
ユーノはさっきから、その堂々巡りを繰り返していた。
「放っておいても、いずれは死ぬだろうがな……その出血じゃ」
男は、ユーノの右肩辺りに眼をやり、ぶるっと体を震わせた。
「槍傷を抉るなんて……ギヌア様らしいさ……並の人間にできることじゃない…」
語尾が怯んだように戸惑った。それを振り切るかのように相手は、一つ顔を振り、はっきりした声音で言い放った。
「だが、あのアシャが余計な手配をしてくれてな。こっちが危ないんだ。悪いが死んでもらう」
ユーノの頭上に掲げられた短剣が月の光を明るく跳ねる。天を突き上げていた切っ先はくるりと向きを変え、容赦なくユーノの胸元に一気に下がってくる。
(い、やだ…)
霞む意識に半ば本能的に片手を伸ばして近くの柱を掴み、短剣の進路から逃れようとぐっと体を引き寄せた。
「っっ…」
激痛が体中を駆け巡って気が遠くなる。が、少なくとも、相手の気は削ぐことはできたらしく、短剣は中空に浮いたまま止まった。
「ほ……まだ……けるのか……たいした……だね、お前……さ」
男の声は波打つように響いて、よく聞き取れない。
耳鳴りがする。吐き気が込み上げる。目眩がして、体の力が抜けてくる。手放すまいとたぐり寄せた気力が、今の動きで一気に削られた。
ユーノはぐったりと首を落とした。呼吸だけが別人のもののように活発に、いや切羽詰まって最後の足掻きのように続いている。
「可哀想だな。安心しろ、今、楽にしてや…っ!」
ふいに、空き家の中に光が満ちた。
短剣を振り上げ、今しも振り下ろそうとした男が、ぎくりと動きを止める。首を薙ぎ払うように突き出した長剣に、震え声で誰何してきた。
「だ、誰だ」
「それを聞くのか」
アシャは冷笑した。
「ここで何をしているのか、俺に説明してもらいたいものだな、セータ・ルム」
「アシャ……ラズーン…」
声が今にも泣き出しそうに掠れた。
「剣から手を離せ。小細工をするなよ」
冷ややかに命じると、は、と如何にもかしこまって答えた相手の手から、突然力が抜けて緩んでしまったと言いたげに短剣がユーノめがけて落下する。あまりにも唐突、あまりにもさりげない、他の人間相手なら絶妙の間合い、だが。
チン!
「小細工をするな、と」
セータの手からまっすぐ落ちた短剣は、アシャの蹴りで進路を狂わされ、遠くに跳ね飛んだ。
「言ったはずだが? お前の耳は使い物にならないようだな」
同時にアシャは首筋にあてていた剣を軽くセータの首に食い込ませた。とろり、と溢れた血の色は鈍い。まだまだ表皮一枚傷つけただけだ。
「無用なものなら、このまま一気に削ぎ飛ばしてみるか」
「…ひ…っ」
セータが絶句して体を凍り付かせた。それもそのはず、剣の刃の向きを少し変え、首の皮を剥ぎながらそのまま耳へ振り上げてみようかという気配を滲ませたからだ。
「う、う、あ」
じりじりと這い上がろうとする刃は、僅かに角度がついている。耳どころかざっくりと、かなりの厚みで皮膚を削ぎ落としかねない深みへ食い込んでいく。
(それでもまだ、死ぬまでには至らない)
アシャは淡々と考える。
どこまで押し上げれば命に関わるか、どのあたりまでならただの脅しで済むか、とっくに熟知している事柄だ。ユーノの命を危険に晒しているのはわかっているが、多少この相手でも殺気を逃がしておかないと、とんでもないことまでやりかねない自分がいる。




