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ガキッ!
「っ!」
はっとして、ユーノは我に返った。
目の前に、夢の続きなのか、それとも現実なのか、ギヌアの冷たく整った顔が迫ってきている。一撃を受け止めた剣を支えた腕は、既にじんわりと痺れ始めている。
「ほほう」
満足げな声が相手の薄い唇から響いた。
「これは、たいした遣い手だったな」
にんまりと笑うと、端正な顔立ちが妙に醜悪に引き攣れた。
「眠っていると思っていたのだが」
「く…」
剣を受け止めたユーノに、ことばに応じる余裕はなかった。押してくる力に抵抗するだけで精一杯、両脚の間で不安そうに猛るヒストを御する気力がない。食いしばった歯の間から、思わず細い呻きが漏れる。
「無茶なことをする『銀の王族』もいたものだ、こともあろうに、守り手たる視察官を置き去るとは」
「こっ…ちの勝手……だろ」
ユーノは小さく喘いだ。ぎりりっと刃が噛み合った部分から微かな火花が散ったように見える。
「そうだな、お前の勝手だろうよ。しかし、『銀の王族』狩りの格好の餌食となることまでは、考えていなかっただろう」
爛々と輝くギヌアの瞳の邪悪さに、ユーノはめまいを感じた。心を直接侵されるような不快感、じりじりとした痺れが腕の力を奪っていく。
殺られるな、と、心のどこかが悟り切ったように呟いた。
(死ぬ寸前なら、アシャを呼んでもいいかな)
醒めて冷ややかなその部分は、ぼんやりと虚ろに続けた。
死ぬ前なら、どこの誰にも迷惑はかからない。レアナに知られることも、アシャに届くこともなく、それでも満足して逝けるかも知れない、と。
その呟きは甘い香りを漂わせていた。心の空白を呼び込むような、全てを投げ出してしまえと誘うような声だ。
(死ねばいいのか? 死ねば、この気持ちは……全うされるのか?)
「ふふふふ…」
ギヌアは低い含み笑いを漏らした。片手でユーノに黒剣を押しつけながら、もう片方の手をマントの下に差し入れる。それから、ゆっくりと見せびらかすような仕草で、視察官の徴の黄金の短剣を抜き放った。
装飾的な造りの剣が、どれほどの威力を備えているのか、ユーノはよく知っている。ガズラの湖での死闘、辺境の塔での戦い……焼け焦げた傷を抱えてのたうち回る『運命』の姿と、肉の焦げ爛れるおぞましい臭いが、ユーノの感覚にはっきりと蘇ってくる。
無意識に体を強張らせたのだろうか、凝視していたギヌアがことばの効果を十分楽しむように短剣の切っ先をユーノに向けた。両手を塞がれ、無防備になっている彼女の鳩尾めがけて、するすると剣を進め始める。
「お前は幾度も、この剣による死を見て来ているな」
掠れるような、さっきまでの明瞭さとは打って変わった、どこか妖しい喜びを含ませた不気味な声で、ギヌアは囁いた。
「だが、その体で感じたことはあるまい? どれほどの苦痛か、どれほどの絶望か……味わってみるのもよかろう?」
ユーノの額から冷や汗が流れ落ちる。
塔での戦いで、ユーノは腹に傷を負った。その傷が再び口を開いて膿み出した気がする。今度はもっと酷い痛みかも知れない、そんな恐怖が勝手に体を走り抜け、力を削いでいく。
「他の『銀の王族』なら、私自ら狩りには来ん」
ユーノの体まで後少し、というところで、ギヌアは短剣を進めるのを止めた。ぎしぎし、なおもきしんでいる上方の剣の絡み合いを一瞥し、再びにやりと禍々しい笑みを広げる。
「だが、お前は特別だ………アシャの保護下にあるからな」
くっくっくっ……と喉の奥で、ギヌアは陰鬱な笑い声を響かせた。
「私は、あいつの関わる全てのものを、できるだけ惨い方法で屠ってやりたいのだ。……そんなもので、あいつに与えられた屈辱が消えるわけではないが……せめてもの代償としてな」
ギヌアの瞳はぎらついて憎しみに満ちている。その目の奥には、この前の戦いが再現されているのかも知れない。アシャの手加減、ミネルバの仲裁でようやく命長らえた戦いのことを。それは煮えたぎるような恨みとなって、ギヌアの心を呑み尽くし、焼き続けているのかも知れない。
ユーノが抵抗を強めたのを感じたのか、ギヌアは再び剣を進め始めた。切っ先が僅かにユーノのチュニックに触れ、微かに横に揺れたような動きで擦れ合った、と、たったそれだけの接触だったのに、チュニックはあっさりと裂かれて、淡い色の煙を上げた。恐ろしい切れ味だ。
「く…」
竦む体に、ユーノは二重に焦った。
(このままじゃ…確実に殺られる)
危機感がぼやけた意識を払いのけた。と、その時、いかなる天の配剤か、曇っていた空からついにぽつりと雨滴が落ちてきた。
ほんの一瞬、ギヌアの気がそちらに逸れる。
万に一つの活路を見出そうとしているユーノにとっては奇跡の瞬間、声にならぬ気合いとともに、重なっていた剣を引きはがし、同時に片足を振り上げ、突然剣から力が抜けたせいで前へのめり込むような姿勢になったギヌアの顔めがけて爪先を叩き込む。
「はっ」
「ち!」
だが、さすがに『運命』の王、ユーノの動きはギヌアに捉えられていた。すぐに体勢を立て直したギヌアは、寸前にマントで視界を遮りながら飛びすさって、足蹴りを避ける。
2人は再び間を空けて対峙した。