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「ユーノ?」
アシャはひょいと部屋を覗き込んだ。が、そこにもユーノの姿はない。
「どこ行ったんだ、あいつ」
再び回廊を歩き出したアシャの手には、五本の銀色の弦を張った楽器がある。ラズーンのもっとも代表的な楽器、立風琴だ。『氷の双宮』へ行くまでにユーノに休息を取らせようと、柄にもなく立風琴を引っ張り出してきたのだが、肝心のユーノの姿がどこにもない。
(こんな所を他の娘に見られでもしたら大騒ぎだ)
溜め息をついて立風琴の表面の細かい彫刻を見つめた。苦笑を浮かべながら考える。
(馬鹿なことをしている)
以前のアシャなら、たかが娘一人のために立風琴まで引っ張り出してくるなんて酔狂なことはしなかっただろう。回りの男がいそいそと、恋人のために花を集め、身なりを整え、恋歌に頭をひねるのを見ては、それほどまでして娘の心を捉えてどうするのだろうと不思議に思い続けていたはずだ。
そんなことに時間を裂くぐらいなら、ラズーン外縁の守りを堅め、世の動乱の方向を見極め、自分の辿るべき道を探し当てたい。
アシャの考えていることはいつもそれだけで、娘の投げる花に見向きもしなければ、類まれなる美姫と言われた娘の歌にも心を動かされなかった。
少年から青年へ、危ういまでに妖しい美貌を保ったまま成長していく彼に、周囲は何とかしてその興味を捉えようとした。四大公は言うに及ばず、あらゆる貴族がアシャを宴に呼び寄せようと躍起になったが、アシャはどれもこれも丁重に断り続け、『氷の双宮』に籠っていた。剣の技を磨き、医術の腕を高め、『太皇』の期待に応えて、深遠な知識をラズーン正統後継者の一人として蓄えるべく。
人はそうした彼を、整いすぎる美貌と石のような心にかけて、『氷のアシャ』と噂した…。
「…そうなの」
リディノはうなじにかかった淡い金髪の巻き毛をうっとうしそうに払って頷いた。
ミダス公邸の一隅、広大な花苑の中には、今を盛りと咲き乱れる淡い紅の花弁のライク、細かく縮れるような黄色の花々、『月光花』とも呼ばれる蒼白いラフレス、そしてユーノが名前も知らぬ大輪の赤い花が溢れるように咲いていた。
そろそろ昼になろうかという日差しは暖かく花々を照らし、甘い香りが空気に混じっている。ブーコが鋭い羽音を響かせながら、その体長より長い金の触覚を振り回して、花から花へと渡っていた。
それを目で追ったユーノは、再び響いたリディノの声に、相手を振り向いた。
「あまりにも周囲に素っ気ないものだから、『氷のアシャ』と呼ばれて……それもそうよね、『西の姫君』の誘いまで断るんだから」
「『西の姫君』?」
「そう。今はジーフォ公の婚約者だけど、アリオ・ラシェットという、とても美しい方」
リディノは行儀良く広げた白いドレスに、ライクの花弁を撒きながら応えた。
対するユーノの格好はというと、いつまでもあの花嫁衣装を着ている訳にもいかず、かと言って、リディノが準備してくれたものには傷を隠せるものはほとんどなし……がために、少年用の緑のチュニックにマント、体にぴったり合ったズボンとシャツと言う出で立ちだ。装飾品がわりにと渡された銀のサークルを額にはめ、ただでさえ男だと誤解されやすい姿に、ますます拍車をかけているのは自覚している。
ユーノは今朝リディノに花を見に行こうと熱心に誘われた。疲れた心には美しい花が一番のはずと繰り返し説かれ、根負けして、今こうやって花を愛でながらリディノの相手をする羽目になっている。
「そうね……アリオはちょっとユーノに似てるわ」
「私に?」
「ええ……長い黒髪の黒い目の…」
眩そうな目をしてユーノを見つめ、リディノは微笑した。
(長い髪…)
ユーノは無意識に髪に触れ、僅かに唇を笑ませた。目の前のリディノの、肩を過ぎて背中に乱れる淡い金色の渦とは比べものにもならない、ぱさぱさの短い毛が指に触れる。
(あの時、切ってしまったんだっけ…)
野戦部隊の『星の剣士』(ニスフェル)として、コクラノの奸計に陥り、『「風の乙女」(ベルセド)の住みか』に転げ落ちた時に。
「ユーノ?」
「あ、ううん。話を続けて」
「うん」
リディノは嬉しそうに子どものような邪気のない笑みを見せた。
「それでね、その『西の姫君』が、アシャの噂を聞いて、私なら大丈夫と言って、アシャを呼ばれたの」
くすっと彼女は悪戯っぽく笑った。
「だけど、アシャときたらね、『あなたほどの高名な女性は、私のような若輩にはもったいなく存じます。また、ジーフォ公が誤解されても、あなたの名前に傷がつくことでしょう。私は、やはり「氷の双宮」で魔物の攻略でも考えているのが似合いでしょう』って返事をしたのよ。ジュニーの花を添えて」
「そりゃ…」
ユーノは目をぱちくりさせた。
(要するに、あなたの相手より魔物の方がまだましってことか)
おまけにジュニーの花だ。
ジュニーは、その花弁から紫の染料を取る濃紫の花だ。実をつけず、根からの株分かれで増えていく花で、それを考えると『実らぬ恋』という答えのだめ押しになる。
「きついな……怒っただろうね、相手」
思わず親しげな口調になってしまったのは、リディノの人柄の為せる技だった。
朝、ユーノが目覚めると同時に部屋に入って来て、まるで十年来の友人か、実の姉妹のように一緒に花を見ようとねだった。同い年のはずだが、宮殿育ちのリディノは数歳年下のように錯覚する。
(私も宮殿育ちは宮殿育ちだけど)
「ええ、それはひどく」
リディノは肩を竦めて小さく桃色の舌を出した。小動物を思わせる愛らしさだ。
「『西の姫君』は、その時は確かにジーフォ公に求婚されていたけれど、乗り気どころか嫌がっていたという話だし、アシャに対する自分の魅力にとても自信があったと聞くわ。腹立ちまぎれにジーフォ公と婚約したって」
「ふうん」
(『氷のアシャ』か…)
それは自分の知らなかったアシャだ、とユーノは考えた。
ユーノの知っているアシャは、いつもユーノの身を気遣ってくれるし、庇ってくれる。怪我をすれば手当をしてくれ、無茶をすれば叱ってくれる。セアラにも父母にも優しく、特にレアナには…。
(でも、私はいつも幻なんだ)
胸が痛んだ。




