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(どうしたんだろう…)
吐息がふいに近づいたかと思ったらすぐに離れた。キスされるのかと構えた自分が情けなくて気恥ずかしい。
結局つけてくれなかった髪飾りを手に、慌てて部屋を出て行くアシャを見やり、のろのろと鏡の方へ視線を向ける。隣室の香気を伴った湯気にも曇っていない鏡が、ユーノの全身を映し出している。
(まさか…気づいたのかな)
ひやりとして顔が強張った。アシャが入ってきたのに、とっさについ、傷を隠したのがまずかった。
(肩ぐらい隠しても……そこら中に傷があるのに)
こういうところだけはしっかり『女の子』なんだからな、とうんざりする。
(アシャに余計な心配をさせてしまう)
少女の体に少年の魂を抱いて生まれてきたと思っていた。多くの命が生まれているのだから、時には神様だって入れ間違えることぐらいあるだろうと。なのに、その少年の魂の片隅に、少女の心が潜んでいて、唐突に顔を出してはユーノを脆くさせる。
(しっかりしろ、情けないぞ)
鏡の中の自分に呼びかけた。
(ラズーン存亡の危機に何を言ってる。それに、お前は自分でこの道を選んだ。この傷はその証、言わばお前の紋章じゃないか。月獣の呼びかけに、他の誰でもない、自分がこの運命を選び取ったと宣言したのは嘘なのか)
きり、と唇を噛んだとたん、背後の扉が開いた。
「ユーノ」
振り返ると、片手に白いドレスらしきものを抱えたアシャが姿を見せる。
「それを脱いで、これに着替えろ」
「どうして? 似合わないか?」
「いいから!」
アシャは奇妙に苛立った様子でドレスをユーノに押し付け、くるりと背中を向ける。
「う、ん」
(そんなに…みっともなかったのかな…)
理由はわからないまま、とりあえず水色のドレスを脱ぐ。白いドレスを手に取ったが、ただでさえドレスを着慣れていないのに、これはまた特別なものらしく、どういう造りになっているのか、全くわからない。
「あれ……えーと……うーん……」
困り果てて、おどおどとアシャを呼ぶ。
「アシャ…」
「できた…、こら、ユーノ!」
「だって!」
振り返りかけて気まずそうに慌てて顔を背ける相手に、かっとする。
「こんなの初めてでわかんないだろ! 着方を教えろよ!」
(レアナ姉さまならわかった)
自分がやはり出来損ないなのだと感じて哀しくなる。
「あー、えーと、だからな」
アシャが背中を向けたままぼそぼそ唸った。
「まず、後ろの帯を外すだろ、それから」
「外すって…どうやってさ」
後ろの帯、がまずよくわからない。見た感じでは数本、似たような布が組み合わされている。
「そのまま外せ」
「だって、なんか妙な形に組んであるよ?」
「あ…そうか」
アシャはあやふやな声で応じて天井を見上げた。
「えーと…だからな、右上の筋を浮かして、左側のを半分ほど引くだろ」
「うん…?」
言われた通り、ユーノはおそるおそる白い組み帯を引いてみる。と、緩むどころか、逆にきゅっと締まる形になってぎょっとして手を止めた。
「締まったよ!」
「締まるはずはない」
「だって……締まったもん!」
「だからなあ…」
うっとうしそうに唸るアシャに涙が出そうになる。
「んなこと言うなら、アシャがやれよ!」
ぶち切れて喚いてしまった。
「ボクには出来ないってば!」
(どうせ、ドレスの着方なんか、想像もできないんだ)
半泣きになったユーノの気持ちなぞ知らぬ顔で、一瞬体を強張らせたアシャが、そろそろと肩越しに視線を投げてくる。
「待てよ、そいつは…」
溜め息まじりの声に切れた。
「ボクの裸なんて知ってるだろっっ!」
顔が熱くなる。みっともない。情けない。なのに、頼む相手がアシャしかいない。
アシャはユーノが怒鳴ったのに、奇妙な顔になった。困惑と苦笑、その笑みがやがてしたたかで悪戯っぽいものに変わるのを恨みがましく見上げる。
「いい加減にしろよ、こんなとこまで来て、まだボクを…」
(からかいたいのかよ)
さすがに呑んだ一言が聞こえたように、アシャがひょいと肩を竦める。
「まあ…いいか」
「何がっ」
「いや……ユーノ、お前、ラズーンの風習について多少知っているか?」
「は?」
ラズーンは性別を持たぬ神が住まうと言う伝説の場所なのだ、そこにこんな生身の世界があったなどとは思ってもいなかった。
「知るわけないだろ」
「…だろうな」
アシャの形のいい唇が奇妙な笑みに歪んだ。その笑みを浮かべたまま、振り向いてドレスを受け取り、組み帯を解きにかかる。
「??」
(何だってんだよ、一体)
訳がわからないまま、それでもアシャが慣れた様子で組み帯と、その下に隠されていた組み紐を外していくのを呆れて眺める。
「ややこしいな……こんなの、一回見たぐらいでわからないや」
何を考えて、こんな複雑なドレスを持ってきたんだ、と首を捻るユーノに、アシャがくすり、と耐えかねたような笑いを響かせる。
「そうでなきゃ『困る』代物なんだよ、これは」
くすくすと笑いながら付け加える。
「誰彼構わずに解かれたんじゃ、『相手』の面目がなくなる」
「相手?」
ますますわけがわからない。
「でも、アシャは解けるじゃないか」
「俺は、な」
少し片目をつぶってみせた。
「状況によって、いろいろな格好をするからな」
「あ、女装趣味か!」
「っ」
がくりと前へ首を落としかけ、アシャはじろりと冷たい目でユーノを見た。
「そんなこと言ってると、脱がしてやらないぞ」
「はんっ」
歯を剥いて笑い返しながら、ユーノは言い返した。
「脱ぐぐらい、一人でやれるよっ」
そうだ、着るのは難しくとも、脱ぎ捨ててしまうならば、何とでもやりようがあるだろう。だが。
「どうだかなあ」
アシャは楽しげに解いたドレスを開いた。下着姿のユーノの肩からすっぽりとかけて、両脇、肩、両腕の組み紐を再び元通りに組み始める。




