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レスファートはそれから以後、片時もユーノの側を離れなくなった。食事の時も、移動するにも、ユーノの長衣を片手で握ってくっつき回る。
「どうなってんだ、ありゃ」
小さな器に入れた食べ物を吹いて冷ましてやったユーノが、一さじ、また一さじとレスファートに食べさせてやるのに、イルファがぼやく。
「あれじゃ、まるっきり赤ん坊だぜ」
「今のところは、それでいいんだ」
アシャは考え込んだ声になっている。
「レスは心の拠り所を失ってしまった。自分がどこにいるのか、わからなくなっている。ああやってユーノと接触することで、ちょっとでも心が開いてくれるなら、それに越したことはない」
「へえ、ややこしいな」
イルファが溜め息をついた。
「まあ、確かに前よりは今の方がましか」
「レス、あーん」
「あー…」
二人の会話を耳に、ユーノは次の一さじを開いたレスファートの口に入れてやる。
時間はかかるだろう、だが前のようにレスファートが笑うなら、ましてやそれが自分のせいなのだから、どれほど時間がかかっても構わない。幸い、野戦部隊と同道するなら、カザドや『運命』もそうおいそれと手を出さないだろうし、ラズーンへの道案内も得られているのだから、焦る必要はない。
「んむ」
「しっかり噛んで…って、ほら、レス」
口の回りについた食べかすに苦笑して、ユーノは指を伸ばす。セアラでもこんなことはしてやらなかった。もし、子どもが産まれたら、こんな感覚なのだろうか。自分の与える一さじをもぐもぐと含む唇も、一所懸命にこちらを見つめている瞳も、このままずっと食べさせていてもいいぐらい愛おしい。
「……」
ふい、とレスファートは口を動かすのを止めて、小首を傾げた。ユーノを見つめる瞳の奥に、一瞬もがくような苛立たしげな波が動いた、と見えた。
「もう一口…いらないのか?」
「……」
レスファートは無言で頷き、いきなりぴったりとユーノに身を寄せてきた。膝にしがみつくようにくっついているのに、なお不安なように小さな両手でユーノの長衣をきつく握りしめる。
ここ数日、時折こんな様子がある。
それは何かを思い出そうとしかけて、その思い出すことに伴う気持ちの揺れを何とかやり過ごそうとするような仕草だ。
まるでちょっと前の私だよな、そう苦笑しかけて、ユーノは顔を引き締める。
(ことばがでないな)
器を置き、そっとレスファートの頭を撫でる。始めの頃は触れるたびごとに体を強張らせていたのだが、最近はユーノがレスファートのどこに触れようが、任せ切ったように身動き一つしない。
心は緩やかに開かれている、進歩は進歩だ。進歩は進歩なのだが。
(このままってことは、ないよな)
ずきりと胸が痛んだ。
甘えん坊だけど、元気一杯はしゃいでいたレスファートが脳裏に浮かぶ。パチッ、と鋭い音をたてて爆ぜた炎に、日差しを浴びて満面の笑みのレスファートが重なる。
(それほど……私が必要だったの、レス…?)
心の中で囁いて、レスファートの髪を手櫛で梳いた。気持ち良さそうに目を閉じているレスファートの指が、次第に緩んでくる。ふっとレスファートが目を開けた。ユーノがそこにいるのを確かめると、再び眠そうに目を閉じる。
(あ)
その唇がほのかに笑んだのに、慌てて顔を上げた。
(アシャ!)
「ん?」
じっと彼女を見守っていたらしいアシャが気づいて、足音を忍ばせ近づいてくる。そっと背後から覗き込んでくるのに、ほっとしながら告げる。
「今ね、レスが笑ったよ」
「そうか」
「うん…にこって、ほんの少し…」
「ああ」
「大丈夫だよね、少しずつ、戻ってくるよね…」
小声で話しながら、ついつい目頭が熱くなってくる。
「元のレスに…戻ってくれる…よね…?」
「…もう少しだな」
アシャが低い声で囁き返してくる。
「後はきっかけだ」
「うん……野戦部隊の行程、遅れてるんだろ…? ……ごめん、ボクのせいで」
「気にするな」
ぽん、と温かな掌が頭に載った。
「それより、レスを天幕に運ぼうか。このままでは寝冷えする」
「頼むよ。もう寝入ってるから」
「よし」
アシャがそっとレスファートを抱き上げ、天幕へ連れていく。後に従ったユーノは、レスの笑顔に広がった安堵で胸が一杯で、背後でぶつくさ唸ったイルファの声は聞き取れない。
「…気のせいか、夫婦に見えるぞ。気のせいだよな? ええ? 俺の気のせいだよな?」