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「え?」
ユーノはアシャのことばに振り返った。
モスの遠征隊との戦いから既に一週間以上たち、右肩の傷も、まだ剣を操れるまでは戻っていないが、日常生活に支障がないところまでは回復していた。
裏切り者コクラノの死体からは野戦部隊の衣服、鎧が剥ぎ取られ、名もない男としてスォーガの草原に葬られていた。もう一人、ジャルノンの方は野戦部隊から追放され、その後の消息は聞かなかったが、ああいう二重の裏切り者は、たとえモスを頼っていたとしても、碌な末路ではないだろうと思われた。
そして今、野戦部隊は、アシャ達三人を加え、再びラズーンへの帰還の旅に出ようとしていた。
「お前の傷がもう少し落ち着くまで言わないでおこうと思ったんだが、レスファートが…」
続くことばにユーノは大きく目を見開く。
「レスが…反応しない?」
「たぶん、『星の剣士』(ニスフェル)としてのお前の心象を読んで、そこに自分がいないことに衝撃を受けたんだと思うが」
みなまで聞かず、ユーノは天幕を飛び出した。
「よう、『星の剣士』(ニスフェル)!」「もういいのか?」
野戦部隊の面々の呼びかけにも頷くだけで応じ、イルファとレスファートが寝起きしている天幕に飛び込む。
「イルファ!」
「おう、ユーノ、傷はもう」
「レスは?!」
「ああ…」
イルファはやや疲れた顔で頷いた。
「何とかしてくれ。俺の方が堪える」
「どこにいるの?」
「一人になりたいらしくて、大抵は草地に出てるが」
再びユーノはイルファの天幕を飛び出す。
草地、とは、野戦部隊の野営場所から少し離れた、赤褐色の草はらのことだ。
(いくらモスを撃退したからって)
子ども一人放置しておくものじゃないだろう。
苛立ちながら周囲を見渡し、声を上げる。
「レス!」
一渡り眺めた草地に少年の姿はない。
「レス! どこにいるんだ?!」
「…」
ふ、とどこかで気配が動いた感じがして、口を噤んで感覚を研ぎすませた。
さわさわと草が風に波打つ。弱い日差しが赤茶色の草原を淡く照らしている。
その草波を追っていた目をある一点で止めた。白銀の光がきらりと草の波間に輝いたのだ。
「レス? ……そっちへ行くよ?」
呼びかけながら、それでも怯えさせないように、一歩、また一歩と草を掻き分け進んでいく。案じたように、レスファートはすぐに立ち去らず、プラチナブロンドが風に煌めく光がみるみる間近になった。だが。
「レス…」
少年のすぐ側まで来て、ユーノはことばを失った。
レスファートは小柄な体に、野戦部隊の茶色の長衣を着ていた。子ども用というのはなかったのだが、手先の器用な者がレスファート用に余分の布で仕立ててくれたのだ。アシャやイルファは先のモス遠征隊との戦いの功を認められ、額帯を授けられていたが、レスファートは茶色と緑の紐を組み合わせた額飾りを巻いている。
そして、少年は、草の波の中、何をするでもなく、ぼんやりと膝を抱えて座っていた。
瞳の虚ろさはぞっとするほど、薄い色だけに余計に生気がないように見える。結んだ唇は笑みもせず、白い頬には微かな血の色が頼りなく浮かんでいるだけだ。
「レスファート?」
声をかけても、少年はユーノを振り向きもしなかった。
じっと前方、いやおそらくは、この世界ではない、何か遠いものを見つめている。
「レス」
手を伸ばし、ユーノはそっと少年の肩に触れた。
だが、やはりレスファートの反応はない。ユーノの手を払いのける仕草はないが、それを受け入れる様子もない。
「レス…」
熱く苦いものが湧き上がってきて、ユーノは跪いてそっとレスファートの肩を引き寄せ抱き締めた。
「ごめん……レス…」
謝っても少年は身動き一つしなかった。抱かれたまま、人形のように無言で身を委ねている。自分がこれから何をされようと、どういうことになろうと全く関心がない、その無関心さにぞっとする。
「レス…」
(どうしよう)
自分が愚かな夢に漂っている間に、繊細な心をここまで砕いてしまった。
(どうしよう)
苦しくて哀しくて、眉を寄せ唇を噛む。
「ユーノ………ユーノ!」
アシャの声が響いて、ユーノは滲んで来た涙を飲み下し、立ち上がった。
「ここだよ、アシャ」
「食事だぞ」
「わかった。お腹減ったな」
強いて元気に笑ってみせ、ユーノは頷いた。再びしゃがんで、レスファートに囁きかける。
「レス、ご飯だって。一緒に行こう」
「……」
「レス」
答えぬ少年の手を握り、そろそろと引いた。一瞬、拒むような抵抗を見せたレスファートは、心の中の何かにふいに気づいたように唐突に立ち上がる。無表情のまま、ユーノに手を引かれて歩き出す。
心得て、アシャは草地の端で待っていてくれた。痛ましいという顔でユーノに肩を並べる。
「辛かったら、俺が代わるぞ」
「……ううん」
ユーノは首を振った。一瞬目を閉じ、胸を食い破る傷みを堪え、弱く笑ってアシャを見る。
「…ボクの責任だ。ボクが側にいるよ」
するりとアシャの手が頭に回り、ユーノの髪を優しくまさぐった。
「わかった。無理するな?」
「…うん…」
目を閉じ、その温かさに憩ったユーノは、ふいにぐいと太腿のあたりを押されて目を開いた。見ると、レスファートが彼女とアシャの間に潜り込んできて、二人を離そうとしている。相も変わらず無表情なままだが、唇を引き締め、やや緊張してるようだ。
「レス…そうか」
アシャが思いついたように顔を上げた。やや芝居がかった大袈裟さでレスファートを押しのけんばかりにユーノを引き寄せ、抱き締める。
「な、なに…っ」
かあっ、と顔に血が昇ってくるのに慌てて問いかけると、アシャはじっとレスファートを見下ろしている。
「見ろよ」
「え…あ…レス?」
それまで全く表情のなかったレスファートの瞳が、生き生きと潤んできつつあった。手を伸ばし、ユーノの長衣を掴み、引っ張りながら小さく唇を開く。
「や……っ……や…っ」
「お前がよほど深く刻みつけられてるんだ」
アシャが静かに呟いた。
「俺がお前を奪っていくと思ってるのさ」
「レス…」
「さっき、お前がレスの手を引いてきたから、もしかしたらと思ったんだ。何せ、これまでイルファからさえ逃げていたからな」
「やあ…っ……やっ…」
レスファートはぽろぽろと涙をこぼしながら、赤ん坊の片言のように繰り返した。ユーノの長衣をしっかり握り、渾身の力で引っ張っている。表情が次第に切羽詰まった怯えたようなものになってくるのに、ユーノは急いでアシャから離れた。
「あ…っ」
勢い余ってよろけ、うろたえたように手を伸ばしたレスファートを思い切り抱き締めてやる。そのユーノの首にぎゅっとしがみつき、レスファートは小さくしゃくり上げ始めた。
「えっ……えっ……や……やぁっ……」
「大丈夫だよ、レス」
しがみついて泣き続けるレスファート、その温かみが愛おしく切なく、自分もまた泣きそうになりながら、ユーノは繰り返し頷いた。
「もう、どこへも行かない。ずっとここにいるから」




