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「はっ……っ!」
ヒストを駆って戦場のただ中へ戻ったユーノは、アシャの姿を認めて思わず息を呑んだ。
(凄い)
短剣たった一振りで、コクラノとジャルノンを相手にしている。円弧を描く手足、緩やかな舞踏を思わせる動きは、よく見れば全て細かく計算されていて、どこにも死角を作らず、隙も生み出さない。鮮やかに空を切り裂いていく金の短剣は、一見、荒々しく凄まじい破壊力を持っているように見えるコクラノとジャルノンの剣を、一瞬さえも近づけない。
(もし、この世に戦神がいるとしたら、きっとアシャのような人だろうな)
眩くて、思わず目を細めて見惚れたユーノは、次の瞬間殺気を感じて身を伏せた。パサッ…と一房の髪が流れて落ちる。視界の端に動いた人影に、ユーノは叫んでヒストの向きを変えた。
「卑怯だぞ! ジャントス! それがモスに名高いジャントス・アレグノのやり方か!」
「卑怯…」
相手はくっくっくっ、と妙に嗄れた笑い声を上げた。
「卑怯などということばは、我らのことばにはない、『星の剣士』(ニスフェル)」
ジャントスはゆっくり唇の両端を吊り上げた。禍々しい気配を満たして剣を構える。その背後に、黒く重い霧のようなものが漂っているのに、ユーノはぞくりと身を震わせた。
(何だ?)
この世ならぬもの、だが、決して見知らぬものではない、その気配。記憶にはなかったが、それは命の危険をもたらすものだと知っていた。同時に、根拠などないのに、この戦いに負けるかも知れないという恐怖が湧き起こる。なぜなら、
(剣に隙があるんだ)
心の中で誰かのことばが弾けた。
(私はそれを埋め切っていない)
だからこそ、殺されかけたんだ。
(あの城で……あの湖で……あの荒れ地で…)
「え…?」
がつり、と後頭部を殴られたような気がした。一瞬視界が霞んでぶれたような奇妙な衝撃。心のどこかに穴があって、そこからポロポロと零れてくるものがある。
(城? 湖? 荒れ地?)
そんなところへ遠征しただろうか。
(どこ……?)
覚えがない。
(私…は……私は?……)
踵から崩れ落ちていくような不安に瞬きする。
「覚悟!」
一瞬の隙を、ジャントスは、いや、その背後の黒い霧は見逃さなかった。翻った剣が、ユーノが咄嗟に反応し切れない経路を生き物のように襲ってくる。
ガッ!
激しい音とともに、かろうじてその一撃を受け止めたものの、ユーノの頭は混乱し切っていた。
(この次、相手は腹を狙ってくる)
何かが囁く。
(前もそうだった、あの時は腹を抉られて)
激痛に崩れれば、鮮血が乾いたバルコニーと大地に散った……。
(前…?)
いつ?
(私…?)
どこで?
「あ…ぅ…」
ギチギチと剣が鳴った。必死に支えている右肩に痛みが溢れる。引き千切られるような激痛とともに、生温かなぬめりが肩を濡らし始める。骨がきしみ、筋肉がたわみ、傷が新たな血を吐く。
(右肩が…)
剣を構えたまま、逆らい難い圧力で体から削ぎ落とされていく感覚。
「く…っ」
(誰か…助……けて…)
心の片隅がついに小さく悲鳴を上げた。が、次の瞬間、
(何を言ってる! それでも、セレドのユーノか!)
厳しい檄が飛んできた、でも、
(だめ…だ…)
ぐらりと体が揺らめいた。ヒストの背から滑っていくのがわかる。目の前が一気に暗くなる。
「!」
だが、体はがっしりと中空で抱き止められた。薄目を開けると、ユーノを抱えた人間はいつの間にかヒストに跨がって、彼女の代わりにジャントスと剣を交えている。
(誰…)
しっかりした腕だった。ユーノを胸に抱きとめ、しかも柔らかく包んでくれている。
「く…くそっ」
ジャントスの歯噛みする声が聞こえる。何とか体を動かして、自分の剣を探そうとした腕は、そっと、しかし断固として押さえられた。
「じっとしていろ……俺がいるから大丈夫だ。守ってやるから…」
低い声が胸から直接響いてくる。
(アシャ…)
そのことばもどこかで聞いた気がする。
(守ってやる……本当……? ……姫として…守って…くれるの…?)
体から力を抜く。それでも、腕はユーノを支え続ける。
(アシャ…)
小さく息を吐いて安堵する。
(私……このままで……いても……いい……?)
「ぐっ…あっ……ああっ!!」
ジャントスの絶叫が響いた。どうっ、という重い地響きが続く。ジャントスが倒れたのだろう。
「くそっ……退けえっ! 退けえーっ!!」
切羽詰まったモス兵士の声がした。目を開け、体を起こそうとするユーノを、アシャがやんわりと拘束する。
「動くな……軽傷じゃないんだ」
「うん…」
頷くユーノにアシャは深い色の目で覗き込んでくる。
「コクラノ…は?」
「…シートスがケリをつける」
厳しい表情になって言い放ったアシャは、すぐに瞳を和らげた。
「ばか」
甘い声で囁く。
「こんな怪我で動く奴があるか」
「ごめん…」
「ほんとにお前ときたら…」
小さくついた吐息が睦言のように切なげに聞こえた。
「こうして永久に抱き締めててやろうか…? もう無茶をしないように」
「アシャ…」
蕩ける声音、耳元で呟かれて、こちらの胸まで甘くなる。極上の酒を体中に注がれたようだ。ユーノは目を伏せて温かな感情に浸る。包まれて温められて、心が溶けていく……溶けて小さな流れとなり、アシャへアシャへと流れていく……。
「『星の剣士』(ニスフェル)!」
「ん…」
ユカルの声がした。慣れ親しんだ、平原竜の駆け寄ってくる音も。瞬きするユーノに、アシャは無言で手を添えて体を起こしてくれる。
「大丈夫かあっ!」
すぐ側まで駆け寄ってきたユカルは心配に顔を歪めている。
「大…」
丈夫、と続けようとしたユーノは、そのユカルの向こうのコクラノ達に気づいた。踞り身動きできないようなジャルノンとは対照的に、石突きを地面に突いて仁王立ちしたコクラノが、今しもその槍を持ち上げ、ユカルの背中めがけて投げつけようとしている。




