6
「『星の剣士』(ニスフェル)!」
腕の中で、戸惑いを越え、ついにこちらへ落ちてくれそうだった体が、ふいに別の重さで沈んだのにぎょっとして、アシャは慌てて相手を支え直した。
「ユーノ?」
覗き込んだが、微かに呼吸はしているものの、完全に気を失ってしまっている。
「ちっ」
気づけば、ユーノの右肩あたりに薄赤い染みが滲み出していた。
「俺か?」
もう少しで記憶を取り戻す、そう焦って力を込め過ぎたのかと確かめると、どうも今すぐの出血ではなさそうだ。この斥候に出たあたりからもう出血し始めていたのを、意識して話さなかったのか、無意識に気がつかなかったのか。
(どうしていつもいつも、こいつは)
歯ぎしりするような想いに苛立つ。苦しいなら苦しいと早く言ってくれればいいのに、こうして気を失ってしまうまでアシャの腕に戻ってこない。
(どうせ、ここ2、3日、碌に休んでないんだろう)
野戦部隊の野営場所までそれほど距離は離れていないが、もう日も暮れ切る。モスがうろついているのなら、夜襲をかけられては応戦できない。傷の具合も確認したいし、手当もしたい。
(来る途中に洞穴があったな)
「『風の乙女』(ベルセド)の住みか」のような深い裂け目ではなく、すぐ先に奥の壁が見えている程度のものだったが、一夜の宿ぐらいにはなるだろう。
「…よし」
取り急ぎ右肩を強めに圧迫して抱え直し、アシャは平原竜の向きを変えた。
哀しい……。
(何が?)
自分が……。
それともこれも自己憐憫とやらの一種なんだろうか。
右肩が痛い……ズキズキと絶え間なく神経に牙をたててくる。ユカルが怒っている。動き回るからだぞ、と。
「ごめ……ユカル……」
小さくユーノは呟いた。
どうしたんだろう。呼吸が苦しい………息がうまい具合にできない。陸に上がった魚みたい。陸に上がった魚………彼らは歩いていったのだよ、と心の中の何かが呟いた。進むべき道へ。より、陸で生きていくのに適した体を得、心を得、魂を得た。あるものは空へ、あるものは地へ、あるものは再び水の中へ。ああ、しかし、それは何と長い旅であったことだろう。歩き続けたのだ……ゆっくりと……一歩ずつ。そして、彼らが陸をのし歩くのに、そう時間はかからなかった。彼らはいつの日か、こう思い始めたのだ。自らの意志で、この道を歩いて来たのだ、と。自らの意志で、よりよい、より高度な生を手に入れたのだと。
それは、彼らが覚えた最初の驕りであった。
(どうして、こんなことを考えているんだろう?)
詰まる胸を喘がせ、忙しく息を継ぎながら、ユーノは考えた。
(ボクは一体……誰なんだ?)
「う……」
顔を背けると、冷たい岩肌が頬にあたった。
(気持ちいい……)
苦しい呼吸、岩肌にもたれて辛さをしのぐ。
そっくりなことがあった気がする。いつだっただろう。同じように、右肩の傷を庇いながら岩にもたれていた。
そう言えば、この右肩は何で負傷したんだっけ……変だぞ、覚えがない。
(では、これは名誉ある野戦部隊として戦った傷ではないのか?)
疑いがよく肥えた土壌にまかれた麦のように素早く芽を出す。
(麦……麦……何かひっかかるもの………麦の祭り…)
祭り? ああ、そうだ。ボクはいろんな祭りを経験してきている。麦の祭り、結婚式、花の祭り……花の……舞台………逃げ出して……。
ズサアッ!!
(っ!)
記憶の隙間から突き出された剣が、いきなり背中を切り裂いた。
(っあ…っ)
声も上げられぬ苦痛
(あ…っああああ)
身悶えして絞り出す絶叫。
「う…あああああっ……」
「『星の剣士』(ニスフェル)!」
「あ……ああ……あ……っ!」
「『星の剣士』(ニスフェル)!!」
ぱん、と強く頬を叩かれて、ユーノは目を覚ました。
視界がもやもやと霞んでいる。もう一度目を閉じると、頬を焦がすほど熱いものが目尻から流れ落ちていく。
(ボクは……泣いてたのか…?)
「大丈夫か?」
呼びかけられて再び目を見開くと、薄明かりの中で、アシャの顔が心配そうにユーノを覗き込んでいた。ああ、と答えようとして声にならず、息を呑んで思わず、ひっく、としゃくりあげる。
叩いた頬を労るように手が当てられ、アシャの指がそっと涙を拭っていった。
「うなされていた」
柔らかな声が囁く。
「うん……」
弱く頷き、ユーノは目を閉じて、当てられた手の温かさを味わった。ふいに肩越しに風が流れ込んで来たのがひどく生々しく感じられ、びくりと体を竦めて目を開く。
「……っ」
風から庇うように左手で体を探り、自分が半裸に近い状態なのを知った。だが、それより何より、ユーノの心を衝撃で震わせたのは、明らかに男とは違う自分の胸の微かな膨らみだった。
(ボクは……やっぱり女……だったのか?……)




