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「呼吸を止めておくしか、手がないんだ」
「呼吸を止める」
「だから」
途切れたことばに横目で見やると、微笑んだアシャが指で軽く自分の唇を押さえて、片目を閉じてみせた。黙っているという合図、だがそれは、重なった感触を思い出させるのに十分だ。
「あっ」
(畜生!)
かああっ、と見る間に熱くなった顔を慌ててまた背ける。
この人は天性の魔性だ、そう感じた。人の心をどうすれば揺さぶれるのか引き込めるのか、知り尽くしている。
「それに…たいしたことはしていない」
顔を背けたユーノの耳に届くか届かないかの囁きで呟かれ、仕方なしに振り向く。
相手はいつの間にかユーノに背中を向けている。
「ユカルに協力した程度だよ」
声がどこか淋しそうだ。何だか、せっかく助けた恩に報いていないと詰られた気がする。
「……あり、がとう」
「構わないよ」
アシャは背を向けたまま応じた。
「こっちが助けてもらったことだってあるんだ」
「え…?」
声が呟き程度のせいか、思わず少しずつ近づいていく。
「あなたを?」
「ああ」
「ボクが?」
「ああ」
確かにユーノは裂け目に落ちる前の記憶がいささかあやふやだ。だが、目の前の男は、まるでその部分を知っているように応えている。
「いつ……って言うか、あなた、ボクのことを知ってるの?」
そうだ、考えてみれば、ユーノが裂け目に落ちた時に、アシャはここに居たということになる。ユカルとも親しげだったから、ユーノと話していたこともあるのだろう。
(どうしてそれに気づかなかったんだろう)
ひょっとして、意外に親しく関わっていたのではないか。
(だとしたら)
ここ数日のユーノの振舞いは、あまりにも不躾で無作法ではないか。
(しまった)
野戦部隊の名前を汚すようなことだったのではないか。
どきどきして急ぎ足に相手の側に近づいた。
「ボクと…親しかった、の?」
「記憶がないそうだね」
「うん」
「……君を知っているよ」
ああ、やっぱり。
「そうなんだ、ごめ」
「知っているも何も、セレドからここまでずっと、一緒に旅をしてきた」
「え?」
「ずっと一緒に居たんだ、ユーノ」
振り返ったアシャの瞳は、妖しい炎をちらつかせていた。まるでこちらの心を呑み込むような。
「俺はお前の付き人で。お前は俺の主人で」
静かな口調に熱がこもる。
「え? え?」
「そればかりじゃない、俺にとってお前は」
「待って!」
慌てて遮る。混乱と困惑に頭がぐるぐるする。
「ボクは『星の剣士』(ニスフェル)だ! ずっと野戦部隊で、額帯も受けて、ユカルと一緒に」
「……らしいね」
一瞬、何かとても痛いものを無理矢理呑み込んだ、そういう顔になって、アシャは顔を背けた。それ以上は話さず、ひらりと馬に跨がる。
「どこへ行くの」
我に返って、急いで相手を見上げた。
「ちょっとその辺りを回ってくる。斥候と……頭の整理をしに」
「でも!」
モス兵士は下っ端ではなかった。ジャントス・アレグノ率いるモスの遠征隊だ。
「モスがうろうろしてる、あなた一人じゃ危ないよ!」
ラズーンの第一正統後継者なら、宮殿育ちだろう。荒くれ男達の相手ができるとは思えない。
「…心配してくれてありがとう」
ふ、とアシャは瞳を和らげた。
「だが、多少は腕に覚えもあるから大丈夫だよ」
「大丈夫って…」
思わず相手の出で立ちを見直した。
鎧一つつけているわけではない、焦げ茶色のチュニックの下にはベージュの上着と同色のズボン、野戦部隊の物見と言えども、これほどの軽装はしないに違いない。おまけに帯びている武器が、金の、如何にも宮廷に出入りするような男が好みそうな装飾的な短剣一つときた。
(殺されにいくようなものじゃないか!)
「ボクも行くよ!」
次の瞬間、そう叫んでいた。
「二頭は目立ちすぎる」
けんもほろろに突き放されて、慌てて言い募る。
「平原竜なら二人乗れる!」
「……」
なおも応じないアシャの目が、じっとユーノの右手に注がれている。
(あ…)
足手まとい、それはユーノの方だったのかも知れない。
竦んだユーノに、豊かな響きの声が応えた。
「わかった。確か、左も遣えたな」
「うん、剣士としては当然…」
ほっとしてにこりと笑って答えかけ、ユーノはことばをとぎらせて瞬きした。
(いつか、同じようなことを言った?)
口に乗せたこの感覚、覚えがあるような気がする。
だが、アシャはユーノの戸惑いに頓着しなかった。黙々と荷を積み替え、平原竜の一匹に跨がると、すっとユーノに手を伸ばした。
「ほら」
「うん」
それぞれの所有者があり、主以外に乗られるのを嫌がるはずの平原竜は穏やかだ。数日滞在していただけの男に示す恭順ではない。
(やっぱり、この人は)
ぐっと手を握られ、軽々と平原竜の背中に引っ張り上げられる。右手が利かないため、いきおいアシャの両腕の中に身を収めたが、普通なら感じるだろう、囚われて身動きできない感覚はなかった。柔らかな布を一枚隔てて包まれている、そんな快さにまた戸惑う。左手ですぐに剣が抜き出せるように配慮してくれているのも感じる。
(この人は、本当によく知っている、野戦部隊のことも……ボクのことも)
そっと肩より上にある横顔を盗み見た。
(剣が左で遣えることも知ってた……一体ボクは、この人とどんな関わりがあったんだ?)
それになぜ、シートスもユカルも、それについて話してくれないのだろう。
「行くぞ」
「はい」
(ひょっとして、ボクはこの人に、何か不愉快なことをしていたんだろうか)
今のようなそっけないだけのものではなく、この人が大人だから何もなかったように振舞ってくれているだけで、シートスもユカルも口に出して説明するのを憚られるような不敬なことでもしたのだろうか。
(でも、それなら隊長はきっと叱ってくれるはずだし)
「……??」
ユーノは何度も首を捻った。




