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(なぜなんだろう)
ユーノは振り返って、天幕の入り口の垂れ幕の合わせ目から外を覗き見た。
赤茶けた草の上に、尊敬すべき長、シートス・ツェイトスがいる。
そして、その側に、シートスがあれほど親しく話す相手としてはかなり不似合いな、きらびやかな男が居る。
黄金の髪を無造作に止めた飾り紐、風に吹かれ乱れる金の炎に囲まれた端麗な顔は女性的だ。眩く輝く双眸は紫水晶、しかも差し込む日差しに刻々と色を変え、表情を変え、飽きさせない。彫刻じみた整った容貌、けれど時折零れる笑顔が生き生きと温かく、綻ぶ唇が甘い果実を思わせる柔らかさで、同じ男なのにどきりとする。何かを悩むような表情、厳しく考え込む頬の鋭さも、見惚れるほど印象的だ。
アシャ・ラズーン。
なるほど、ラズーンの第一正統後継者というだけある。
だから、なのか。
(あの人の目を見返せない)
思い出してぼんやりする。
あの紫の目を見ていると、妙に心が乱れて切なくて、おかしな話だが、胸が苦しくなってくるのだ、恋いこがれる娘を目の前にしているように。
「馬鹿な!」
相手は男だぞ。
胸の中で叱咤する尻から、数日前のことを思い出してしまう。おぼろげな記憶から現実に引き戻された瞬間、抱き締められて口づけをされていた。惑うよりも先に、抵抗する気が失せて、ただただ心が寛いで。このままもっと引き寄せられてもいい、そんな甘さにうっとりして。
「くそっ!」
顔がみるみる熱くなって、急いで唇を手の甲で擦る。
(そんな趣味があったのか、ボクは)
確かに耳にしなくもない、同じ危機を凌いだ仲間が互いを求め合うようになる、そういう噂は耳にもする。
だが、アシャは初めて会った人間だ、並外れて女のように美しかろうが、とにもかくにも初めてで。
(初めてで、あんな)
ぞわりと震えた体にうろたえる。
(あんなふうに)
唇を開かれて、触れた柔らかな感覚に意識が溶けて。
(何もかも、奪われたいと?)
「違う違う違うっ!」
「だから何だよ、『星の剣士』(ニスフェル)!」
「へ?」
ふいに響いた声にぎょっとして振り返ると、ユカルが敷物の毛皮の上で胡座を組み、冷たい目でこちらを見ている。
「いきなり、人の天幕に飛び込んで来たと思ったら、妙な顔して返事もしない、あげくにおかしなこと口走りやがって!」
「あ、ああ……」
悪い、と慌てて謝った。
「何か用があったんじゃないのか」
「それだ。少し北の方でモスを見たよ」
「北の方って…おまえ、怪我もちゃんと直らないうちから!」
険しく眉を逆立てるユカルに苦笑する。
「怒るなよ、ユカル」
首を竦める。
「ちょっと暇だったから」
「暇だったからじゃないっ! 怒られるのは俺なんだぞ!」
「ユカルが? どうして?」
一瞬相手が勘弁してくれ、と言いたげな情けない顔になったのをきょとんと見返す。
「そ、そりゃ、い、いろいろと…いろいろとあるんだよ!」
「いろいろ?」
「いろいろ! それより、モスが居たのはどの辺りだ? 隊長に報告しておいた方がいいな」
「だろ」
「よし、ちょっと行こう。来いよ」
「え、あ、その」
立ち上がったユカルに促されて、ユーノは口ごもった。
隊長は今アシャと一緒だ。できるなら、顔を合わせたくない。
「何だ? 見た人間が報告するのが掟だぞ?」
訝しげなユカルに顔をしかめる。掟を持ち出されては、野戦部隊としては、背く訳にはいかない。
「そうだ、な」
「心配するな、俺もついてってやるよ」
「うん」
隊長に報告するのは初めてだったかな、お前、と見当外れな部分を心配してくれるユカルにすまなく思いながらついていくと、隊長の側にはもうアシャはいなかった。
(いない)
思わずきょろきょろしてしまう。
(どこに行った?)
ほっとしたけれど、それはそれで何か淋しい。太陽の光さえ少し翳った気がしてくるのが不思議だ。
「なるほど…モスか」
「『星の剣士』(ニスフェル)」
「あ、はい。ジャントス・アレグノの遠征隊のようです。北の大岩を拠点としているような動きでした」
人数、装備などを確認したシートスが考え込んだ顔になる。
「わかった。斥候を送ってみよう。……ああ、ユカル、少し残れ。『星の剣士』(ニスフェル)は行っていい」
「はい」「わかりました」
引き止められたユカルを置いて、ユーノはシートスの側を離れた。
(あの人、どこへ行ったんだろう)
居ると居たたまれないのに、居ないとなると行方が気になる。
吊った右手を体に引きつけたまま、天幕の間を擦り抜けて行く。あれだけの美貌、むさ苦しい野戦部隊の中ならすぐに見つかるだろうと高をくくっていたが、一通り回ってみても姿がない。
(どこかへ出かけたんだろうか)
ふと浮かんだ考えに身を翻す。
確かにアシャは野戦部隊ではないのだから、ここに居続けなくてはならない理由はない。いつ旅立っていってもおかしくないはず、そう考えて不安になる。
(もう会えない?)
自分がアシャを探し回っているという自覚はない。ただなぜ急に居なくなってしまったのか、どこへ行ってしまったのか、それだけが気になって気になって、平原竜置き場へ走る。確か、彼の馬もそこに繋いでいたはずだ。
(いた!)
平原竜の中に、アシャの金褐色の髪を見つけてほっとした。息を切らせながら、今さらのように、自分がかなり駆け回っていたのだと知った。額から流れてきた汗を急いで擦って、相手が栗毛の馬に荷物を積んでいるのに気づく。
(出ていく、んだ……)
ラズーンの第一正統後継者であるはずの、この鮮やかな男は、なぜかずっとラズーンを離れて旅から旅を続けている。全国の視察をして回っているのだとも、地方の監視に向かっているのだとも、あるいはまた、全く気まぐれだとも聞く。
その目的が不明で、今回も訪れた場所が、たまたま野戦部隊の野営場所だっただけのこと、そういうことなのだろうが、置いて行かれる、とふいに胸が淋しさで一杯になった。
思わず一歩足を踏み出す。距離はあったし、物音をたてたつもりはない、けれど、
「誰だ」
低く鋭い声で誰何されて、立ち止まった。くるりと振り返った瞳は殺気に満ちて猛々しい。だが、次の一瞬、胸を貫くようなその色が、豊かな水をたたえた湖を思わせる柔らかさに凪いで、思わず見惚れる。
(宝石が、果実に変わったみたいだ)
唇を寄せて味わいたい、と思った瞬間、自分の思考の危うさにひやりとする。
「…やあ」
「あ…」
口にすることばを失って怯むユーノに、アシャは少し黙ってから笑いかけてきた。温かみのある甘い笑み、瞳がとろりと潤んだ気がして思わず唾を呑む。半身を振り返らせた姿は神々の彫像のよう、無駄がなく、緩みがなく、しかも滑らかで均整がとれている。
「『星の剣士』(ニスフェル)、だね?」
「あ……うん」
おどおどと頷く。頬が熱くなった。そんなつもりはないのに、声が震える。格が違い過ぎるというのか、自分では相手にならないと竦む感覚を堪える。
「…この前は、すまなかった」
「っ」
淡々と謝られて、顔が熱くなり、慌てて目を背けた。
「君を助けるには、ああいう方法しかなかったのでね」
「助ける…?」
それは初耳だ。
「ラーシェラの花粉を吸い込み続けると、囚われて命尽きるまで力を貪られる」
ぞくりとした。『風の乙女』(ベルセド)というのが、地底深くに根を張った太古生物のラーシェラが原因であることは聞いた。自分が裂け目に落ち、そこから助け出されたことも。




