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(ここへおいで)
戻れと訴えたいのは山々だが、初めて会った娘のように優しく誘いかけていく。
(ここは安全だから)
ユーノはためらい、戸惑った顔で首を傾げつつ竦み、次の瞬間、まるで崖から飛ぶような勢いで、一足飛びにアシャの腕の中に飛び込んできた。ほっと小さく息を吐いて、アシャの胸に身を寄せる。
(こんなに、冷えてる)
小さな体は凍えていた。いつぞやの、なかなか命が戻らなかった夜を思い出して胸苦しくなる。近くで見た横顔には血の跡がある。またどこかを怪我しているのだ、見えている以上に。
(また、俺の知らないところで)
胸の底に広がった苦さは悔しさと苦しさで濃くなっていく。
(俺に一言も助けを求めないで)
それほどアシャは、ユーノにとって意味がないものなのか。
静かにユーノの体に腕を回す。
「!」
どきりとしたようにユーノが身を起こし、離れようとする。対するアシャはそれを止めない。飛び離れかけた相手に乱れそうな呼吸を堪え、再び静かに腕を開く。
逃げるな、では戻ってこない。囁くべきことばは一つ。
(ここだ)
「…………」
ユーノは逃げなかった。自分の体から離れた腕を見つめ、そっと指先で触れてアシャを見上げる。頷いて、もう一度、ユーノを抱く。今度は相手は身動きせず、じっとアシャの胸に体を休ませている。
見下ろして気づく。右肩から強烈な血の臭いがする。夢の中だから普通に動けていても、かなりの深手なのかもしれない。早く手当をしてやりたい、早く。
(落ち着け)
「…ふ…」
カプセルを吐き出してしまわないように、静かに息を吐いた。
(まず一段落)
続いてもう一度、今度は腕に力を込める。ユーノの反応を見ながら、怯えさせないように、少しずつ。
それはまだるっこしい過程だった。
ほんの少しずつユーノを抱き締めていきながら、決してユーノの夢を壊さないようにしなくてはならない。ユーノの夢に、それとわからぬほどの微細な干渉を加え続け、現実へ現実へとゆっくり引き戻していくのだ。だが。
焦りと反対に思わず微笑んでしまった。
(意外にこれは楽しいな)
ユーノの頬に軽いキス、体を強張らせるのをなだめて、もう一度。
ユーノの心を世界から隔てている障壁を、感触でもってほんの僅かずつ切り崩していく。
互いの体を重ねるのに似ている、と不謹慎なことを思う。あれもまた、夢を現実に繋いでいく儀式と言えなくもない。
額の紅に染まった布に手を触れると、ユーノはぎくりと体を震わせてアシャを見た。安心させるように頷いて、額の布を取り出した新しいものに変える。アシャの体にそっと身を寄せているユーノは逃げない。甘えるように右肩を差し出したので、その傷も手当できた。
一つ触れ、一つ手当が進むごとに、ユーノの目の奥で何かが動き、やがて傷に触れると痛みに体を強張らせるようになった。
「あ…りがと…」
ようやく掠れた声が響く。
「…ふ、う…」
随分長いこと聞かなかった声だ、と胸が呻いた。同時に自分が、体の全てが、これほどユーノの不在に餓えていたと気づいて、胸が甘酸っぱくなった矢先、
「あなた……誰……?」
心底訝しげな声にひやりとした。
「…、に…?」
思わず見下ろす黒の瞳は、もう澄み渡って晴れつつある。立ち方もしっかりとし、さきほどまでの危うい頼りなげな気配はない。ユーノがほとんど覚醒しているのは確かだ、なのに。
(今、何て言った?)
「……っ!」
ふいにラーシェラの気配がざわめくように濃厚になった。どうやらユーノを失うまいとしているらしい。
一刻の猶予もない。ぐっと酸素発生剤を噛み、ユーノの顎を押し上げる。
「あ、う」
いきなりの挙動、小さく呻いて眉を寄せたユーノの唇に口を重ね、酸素発生剤の一つを舌で押し入れ含ませた。驚きに目を見張ってもがこうとする相手の体を強く抱く。ラーシェラの実が蔓についたまま、次々と弾け始めた。床に広がっていた塊も、連鎖反応のようにあっという間に黄金の煙に変わっていく。
「ん…っむ」
ユーノが意識を失ったように腕で崩れた。ラーシェラがユーノの支配から手を引き、実を弾けさせるのに集中しだしたらしい。膝が崩れて座り込もうとするユーノの体を片腕で引き上げ、口を布で覆って縛り、軽々肩へ担ぎ上げる。
(もらっていくぞ)
ちらりと樹を振り返って響かせた想いは嘲笑だ。
(お前じゃ格不足だ)
「!!!」
声なき怒号が岩屋を満たす。荒れ狂うように黄金の粉を吹き付け、蔓を揺らめかせたが、アシャは立ち止まることもなく、『風の乙女』(ベルセド)に吹き送られるように脱出していった。




