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(ユーノ…)
微笑したまま、眉をひそめて自分の胸を抱き締めるユーノに、アシャは息苦しくなる。
(それほどの想いを…)
誰が拒んだ?
(知りたい、が、知りたくない)
その男はどれほど長くユーノの側に居たのだろう。アシャよりも長く、アシャよりも深く、ユーノの心に触れていたのだろうか。きり、と小さく奥歯が鳴る。
『大丈夫』
静かにユーノの唇が動いた。
『わかっていたから……大丈夫』
だが、それでも、わずかに上げた瞳の黒は、想いを込めて相手を追っている、追っている、追っている…。
「アシャ…」
ユカルの呼びかけに、我に返った。
「あれは一体何をしてるんですか」
「…ユーノが感じている一番強い感情の表現だ。ある人間を好きになった。気持ちを伝えても拒まれた。なのにそいつを諦め切れない」
自分の声が硬く単調なものになっているのを感じた。
(誰なんだ)
荒々しい声が胸で弾ける。
(ユーノの想いを拒んだのは誰なんだ。あいつに、あんな想いをさせている男とは、一体どんな奴なんだ)
旅の最中にユーノが見せたためらいが、次々とアシャの脳裏に浮かんでくる。
一番誰よりも幸せになってほしい人間。
(俺には絶対わからないと言っていた)
そいつならば、ユーノはその心を、その身を委ねるのだろうか。アシャの時のようにためらうことなく、腕の中へ身を投げるのだろうか。
「…っつ」
じり、と焼け付く胸に顔をしかめる。
(嫉妬か)
気づいて苦笑する。
(まったく、ざまあない、これじゃそこらのガキと同じだ)
ふ、っと息を吐いた。心を統制し鎮めにかかる。自分を嘲笑いながら言い聞かせる、なるほどえらく切羽詰まっているが、そういうことは死地を脱出してからのんびりやることだ。
(よし)
腰の辺りを探って、小さなカプセルを3個取り出す。
「ユカル」
振り向く相手に1つ差し出す。
「これを含んでいろ。『風の乙女』(ベルセド)が出たら軽く噛むんだ。中から空気が溢れ出て、口さえ閉じていれば、しばらくは息がもつ」
「はい…」
ユカルは不思議そうに酸素発生剤を受け取った。
残り2つを片方の掌に転がし、傷みを抱え込むように体を揺らせているユーノを見やる。自分で切ったのかばらばらに乱れた髪、苦痛を堪える顔が痛々しい。どんなに大切な想いかは知らないが、ラーシェラのお楽しみを満たすために差し出し続ける必要もないだろう。得られる資格があるのは。
(全テヲ、ヨコセ、コノ俺ニ)
喉の奥で吐きそうになった台詞を噛み殺す。
「俺はラーシェラの手に乗ってみる」
「え?」
「遅かれ早かれ『風の乙女』(ベルセド)が出るだろう。あの中にいる限りユーノは幻覚から逃れられない。かといって、急に引っ張り出すと、心が夢の中へ置き去りにされてしまう」
物狂いの風とはよく言ったものだ。
「じゃ、じゃあ、どうするんですか」
「一か八か、ラーシェラの手に乗って、ユーノの夢の中へ入り込んでやろうと思う。上手く行けば、あいつを夢から連れ出せる」
「でも…」
困惑した顔で眉を寄せるユカルに、少し笑った。
「心配だろうが、先に降りて来たところに戻って、足場を確保しておいてくれ。必ず助け出していく」
「…わかりました」
さすがに太古生物では分が悪すぎると思ったのだろう、ユカルは考え込みながらも頷いた。
「先に行って、お待ちします、アシャ・ラズーン」
「いい子だ」
「…俺は子どもじゃありません」
ちらりと挑発的な視線を投げ、ユカルは降りて来た裂け目の方へ戻っていった。
見送ってアシャは再び岩屋に向き直った。カプセルを2つとも口に含む。噛みはしない。含んだまま、そっとふわふわしたクリーム色の絨毯の上、和毛の塊を押しのけるように足を降ろした。僅かに現れた岩肌にざりと奇妙な感触がある。和毛の塊の下、割れ砕けた薄白い欠片はよく見ると点々と散っている。
(犠牲者は数知れず、か)
ざわり、とラーシェラが揺れる。アシャの意図に気づいたようだ。
だが、逆に挑んでくるように、蔓を揺らめかせてなお幾つかの実を落とし、黄金色の粉を撒き散らした。
また刺激されたのだろうか。ふ、とユーノがアシャを認めたように、再び求愛の動作を繰り返す。
手を差し伸べる、優しく微笑む。
踊りを申し込まれたように、アシャも静かに相手の動作に答えを返した。
手を差し伸べる、笑みかける、だがそこで止める。嫌いじゃないよ、とも、好きだ、ともとれる曖昧な動作は意識的なものだ。
不審そうに眉を寄せたユーノが、一歩彼に近づいてきた。どうやらうまく夢の中へ入り込めたらしい。
ユーノは片手を差し伸べて小首を傾げる。その手をとって、アシャはユーノを引き寄せる。
一瞬怯えたような表情がぼんやりとしていたユーノの面を覆った。びくりと体を震わせ、身を引こうとするのを、アシャはそのまま手を放してやる。
ラーシェラの夢の中に居る人間に対して無理強いは禁物だ、特にあまり接触が確かでない場合は。強く拒まれたが最後、永久に夢から連れ出せなくなってしまう。
「……」
ぎりぎりと胸を締めつけてくる焦燥感に耐え、アシャはわずかに遠ざかってしまったユーノをじっと待った。汗が滲む。このまま、この娘が自分の手に戻らなかったらどうする、そんな迷いを必死に振り切る。
(今は俺を消す)
自我をなくし、ユーノの夢に同化することが先決、アシャの存在はただの記号でいい。
数歩急ぎ足に離れたユーノは、立ち止まり、そっとアシャを振り返った。
「…?」
おどおどした目がアシャを見つめる。
「……」
応えて、アシャは両手をそっと開いた。