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アシャ達を襲った『風の乙女』(ベルセド)は、裂け目に居たユーノをまともに包み込んだ。
「う…」
甘い匂いにむせ、呼吸ができなくなって、ユーノは目を覚ました。額と右肩の痛みは依然として感じないが、じくじくと濡れたままの包帯や長衣が出血が続いていると教えている。
「あ、ふ…」
思い切り息を吸い込んだユーノは、次の瞬間、ぐらりとくる目眩を感じた。頭の芯が白く色を失い、空洞になった部分に、その匂いが巧みに滑り込んでくる。
(何の…匂い…)
岩に体を委ねたままぼんやりと考える。ただでさえ、奇妙に麻痺したままの感情と思考が、匂いにより寸断されていく。
いらっしゃい。
匂いはユーノに囁いた。有無を言わせない、けれど力の限り抗えば抜け出せる、微妙な強制力。
ユーノはそれに抗おうとは考えなかった。
ぴくっと腕が動き、掌がのろのろと岩肌を押す。危なっかしく揺れる体を支える。両足がパシャンと軽い音をたてて、水の中に突っ込まれ、力が込められる。全て他人事のように、感覚が遠い。岩肌のざらざらしているはずの手触りも、両足を包んだ水の冷感も、力を込めた時の体の痛みさえも、恐ろしく鈍い。
こっちよ。
声が呼ぶ。
右手をぎちりと突っ張って、思わず体を強張らせた。鮮烈な痛みが走り、霧がかった頭の中を揺り起こす。
「あ…?」
少し眉をしかめた。
心のどこかで警告の鐘が打ち鳴らされている。切羽詰まった祈りのような、掠れたか細い響き。
消えそうなそれに耳を傾けようとしたユーノは、ごつっ、と水流の中に突き出していた岩に躓いた。
バシャン!!
「くっ」
まともに水の中へ倒れ込み、慌てて体を起こす。窒息しまいとした本能的な動きだったが、それが曇ったユーノの心に微かに光を差し込ませる。
(まえに……こんなことがあった……)
水の流れの中だった。
辺りは夜の闇だった。
哀しくて哀しくて、ただ泣いていた。
そのユーノに差し伸べられた手があった。
暖かく抱き締めてくれるその手に、すがりついた、すがりついて……なのに、哀しかった。
これは夢なのだと、何度も言い聞かせなくてはならない、そうわかっていた。
(痛い…)
ユーノは胸の奥を貫いた想いに顔を歪めた。
なぜかはわからないけど、この記憶は心を息苦しく締め付ける。
ユーノの怯みに、匂いは巧妙に忍び込む。
おやめなさい。こっちよ。こっちにくるの。
(こっち…?)
水粒を滴らせながら立ち上がった。匂いが導くように辺りを取り巻き、ユーノを誘い込む。
一歩……一歩……。
夢の中のような危うい歩みを続けた。
ぼたん。紅まじりの水滴が緋色の花のように岩の上に砕ける。
声が呼び続ける。
こっちよ。こっちに来るの。哀しいんでしょ。痛いんでしょ。つらいんでしょ。慰めてあげるわよ。
岩の行路をふどれほど歩いたのか、水流が少し先の岩組みの中へ吸い込まれる辺りで、ユーノは歩みを止めた。
だめだ。行くな。お前は帰らなくちゃならない。
声が響く。
(どこへ?)
決まっている。お前を待ってくれている人の所だ。
内側の、どこかから。
だが。
(誰がボクを待っているって? ……何が……ボクを?)
ふらりとユーノは岩によりかかった。額から生暖かいものが流れてくるのを感じる。
(出血…?)
額に手を当てようとして、よろめいた。崩れかけ、岩角を曲がるようにたたらを踏み、かろうじて持ちこたえる、と、そのとたん、匂いは甘く強く、ユーノの全神経を支配した。
(あ…あ)
そこは、さながら淡く月光を浴びた寝所とも見えた。
小部屋ほどはある岩屋の中一面、薄い黄色のフワフワした塊が微かに光を放って転がっている。塊の一つ一つは人のこぶし程度の大きさで、柔らかそうな和毛は生まれたばかりの鳥の雛を思わせた。
それが何なのかはユーノにははっきりわからなかった。が、ただ、ユーノを優しく受け止めてくれるだろうということはわかった。その柔らかそうな絨毯に向かって、自分の体が倒れ込んでいくのを、ユーノは止めなかった。
ぼす…っ。
衝撃はすぐに和毛の塊に吸収された。まるで、細かな粒子が風に煽られて浮き上がるように、幾つか飛び上がった塊がフワッ……フワッ……とユーノの体の上に降りてくる。と、パン、と微かな音をたてて黄金色の粒を吐いて砕け、あのどこか、妖しい甘い匂いが充満した。
「ん…」
頭の隅、彼方の遠いところから強烈な眠気が襲ってきて、ユーノは再び眠り込んだ。




