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「それは…!」
ユカルがぎょっとした声で叫んだ。慌てて自分も平原竜を降り、駆け寄ってくる。アシャの手元を覗き込み息を呑むのに頷き返す。
「…」
指を濡らしたのは血だった。
それほど前に流されたものではない。
乾き切っていない……乾き切らぬほど大量に流されたのか?
「アシャ、こっちにも!」
周囲を素早く確認したユカルが、点々と続く血の跡を指差した。
辺りの草は激しく踏みにじられている。犠牲者を引きずっていったと見えなくもない。その先に、小規模ながらも底深い「『風の乙女』(ベルセド)の住みか」が口を開けている。
「…どうやらここらしいな」
低く呟いて裂け目の中を覗き込む。ただでさえ鈍い光は、とてもではないが、その奥まで照らしてくれはしない。
「クェアーッ!!」
唐突に猛々しい叫びが響いて、アシャとユカルは振り向いた。
曇天に白々と、クフィラの勇壮な姿が浮かび上がっている。
「サマル!」
アシャの厳しい声を叱咤と感じたのか、クフィラは渋々と言った様子で舞い降りてきた。差し出した左腕に大人しく乗ったものの、いつものようにアシャの肩へすり寄ろうとはしない。
「これ…『星の剣士』(ニスフェル)のクフィラだ」
「クェッ!」
これ、と物扱いされたのに苛立つように、サマルカンドはぷいと首を背けた。だが、問い正すようなアシャの冷ややかな目にあうと、首を竦め、上目遣いに機嫌を伺うような様子を見せた。ユーノの側に居なかったのを恥じるように見える。
「…ん? …そうか、連絡があったのか」
どうして肝心の時に、サマルカンドがいなかったのかはすぐわかった。足首に通信筒がついている。ラズーンの方で呼ばれたのだろう。アシャに近い呼びかけをするもの、おそらくは『太皇』あたりか。
メッセージを確かめたアシャは思わず眉を寄せる。
『急ぎ帰還せよ。ラズーン存亡の危機、来たれり』
顔をしかめたまま、アシャは通信筒をサマルカンドの足首に戻した。
「よし、サマル。俺の馬が野戦部隊に戻ったら、すぐにラズーンへ飛んでくれ」
「クェッ!」
ふわりと、質量を感じさせない軽さで、クフィラはアシャの左腕から舞い上がった。それを見送ることもなく、アシャは馬の荷を下ろし、丈夫な縄紐を取り出した。「『風の乙女』(ベルセド)の住みか」の端へ固定し、強度を試す。
「あ、アシャ!」
「ん?」
「この中に…降りるんですか?」
「ああ」
「だって……ここから『風の乙女』(ベルセド)が出て来たんじゃないですか?」
「そうだ」
「じゃあ、また出てくることも」
「あり得るな」
淡々と答えながら、アシャは持ち物を確かめた。
「もし、そんなことになったら、どうするんですか?」
切り立った崖のような裂け目の壁を伝い降りる最中に、あの風に巻き込まれてしまえば、一瞬意識を失って落下してしまうかもしれない、どこが底ともわからない谷の中へ。
だが。
「下にユーノが居る」
その場にそぐわぬ笑みだったのだろう、見返したユカルが顔を引き攣らせる。
「それだけだ」
そして、それ以外のどんな理由が必要だろう、今ここでアシャが降りていく意味に。
(お前は俺の主)
ふいに胸に打ち寄せた激しい感情に、思わず目を伏せる。
(お前が居るところこそ、俺の居るべき場所)
昔語られた恋物語だっただろうか、それとも恋人を口説く詩歌だっただろうか。
脳裏を過ったのは、ユーノがいない旅の日々だ。レスファートの落ち込みも、イルファのことさらな上機嫌も引っ掛かりはする、だがそれより強く傷む想い、繰り返し繰り返し見やる、天幕のいつもの場所に眠っていない存在を、どれほど自分が望んでいたのか、今しみじみとわかる。
「でも…っ」
軽く後じさりしかけるユカルに苦笑した。
「怖いのか?」
アシャは怖くない、むしろ胸が高鳴っている、ようやく再会できるのだ。ようやくもう一度、ユーノの側に自分を置けるのだ。唇が微笑みに綻ぶのがわかった。
(どこまでも、俺はお前を追う)
いやむしろ、ユーノを追えるのが自分だけだと証明したい、今。
「怖いなら来なくていい」
そっけなく言い放ったアシャに、ユカルの強張っていた顔が見る見る赤くなった。アシャの笑みを嘲笑ととったのか、苛立った表情で、
「俺も行きます!」
「…」
「隊長に怒られる」
訝しく振り向いたアシャの目を真っ向から見据えて、険しい顔で唸る。
「あなた一人を行かせる気はない…っ」
その瞳の激しさにアシャは微かに息を呑む。
(こいつ、ひょっとして)
同じ激情をアシャは自分の中に飼っている、ユーノを誰にも渡さないという所有欲を。
「…なるほど」
応じたアシャの声の低さに、ユカルもまた気づいたのだろう、ぎっと歯を食いしばる音が響いた。
若さと情熱、それに勝る何をアシャはユーノに示せるのか。
(だが、今はそれに構っている場合じゃない)
ラーシェラもまた手強い敵だ。
「よし、来い」
「はいっ!」
縄を伝って地の底へ降り始めるアシャに、ためらうことなくユカルが続く。
「クェアアアーッ!」
無事を祈る、そう言いたげなサマルカンドの声が、鋭く天を衝いていった。




