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「どう…っ……どう」
アシャは、馬に軽く声をかけて止まらせた。汗に濡れ、額にへばりついた髪をかきあげる。
かなり走り、既に野戦部隊が見えない位置まで来ているというのに、ユーノの気配一つ、影一つもみつからない。あちこちに点在している赤茶けた岩塊の後ろを、一つ一つ探るというわけにもいかない。厳しく唇を引き締めたアシャは、背後に近づいた物音に振り向いて問う。
「ユカル」
「はいっ…」
ようやくアシャに追いついてきた少年は、軽く息を切らせて答えた。
「もし、お前が『運命』支配下の者を、姿形残さず始末するとしたら、どうする?」
「えっ…はい…あの…」
ユカルは緊張した顔に微かな惑いを浮かべ、手綱を握りしめて汗ばんだらしい片手を膝の辺りにすりつけた。
「俺…俺なら…」
ここ数日間、走り回っていたスォーガの草原を見回す。岩塊の陰などは子どもだましだ。もし、その姿形を、一目につかぬように始末してしまうとしたら。
ふと、何かに呼ばれたように、ユカルの眼が風に波打つ草の間をくぐり抜けた。
「俺なら『風の乙女』(ベルセド)の住みかへ落とすでしょう……では!」
はっと目を見開くユカルに、アシャは苦く唇を歪めた。
「俺もそうするだろうな。特に、その人間が有名であればあるほど」
言いながら、胸の内にじりじりと焦燥が満ちてくるのを必死に押さえつける。
「この辺りの裂け目を知っているか?」
「ええ、大体は」
ユカルは、はしこそうな焦茶の目を、草原の数カ所に走らせながら応じた。
「もう少し東へ行った所に1つ、それから、南に行った所にかなり大きいのが1つあります。でも、もっと小さな裂け目なら、少なくとも5つはあります」
「7、8つか」
ぐいとアシャは手綱を引いた。
「手当たり次第にあたってみるしかないな」
「では、手分けしましょうか?」
「いや、ひょっとすると伝令に飛んでもらわなければならないかも知れない」
自分の声が温度を下げる。
「どうも嫌な気配がある」
「『運命』の?」
ユカルはどきりとした顔になった。彼自身はそう感じていなかったのだろう。
「おそらくはな」
(余分な手間がかからなきゃいいが)
スォーガにはもう一つ厄介な魔物の噂がある。それは太古に生きていた生物で、近づく者を虜にするという。
「とにかく、近くの裂け目から当たってみよう」
「はい!」
アシャはユカルについて馬を進めた。
空は次第に、おどろおどろしい不気味な色に染まっていく。風が一際強く草原を吹き渡って、前に居たユカルがいまいましげに呟くのが聞こえた。
「ちぇっ……『風の乙女』(ベルセド)でも出そうだ」
(『風の乙女』(ベルセド)か)
ユーノもそうだな、と頭の隅で考える。
(追いかけても抱き締めても、いつもいつも俺の腕から幻のように擦り抜けていってしまう)
「!」「アシャ!」
ユカルの不安げな声を待つまでもなく、突然、前方から押し渡ってきたような風が、普通の風とは違っているのを感じた。鼻先を掠める空気、その瞬間。
(これは)
「ユカル! 伏せろ! 息を止めるんだ!」
叫んですぐに身を伏せる。そのアシャとユカルを巻き込むように、風は一気に吹きつけてきた。まとわりつくような異様な感触、まるで何十人という乙女が一斉に小声で話しかけてきたような錯覚を与える、ざわめいた風だ。息を堪えるアシャの鼻腔に、一瞬吸い込んだ甘ったるい匂いが染み付くように澱んでいる。
(物狂いする風……『風の乙女』(ベルセド)が聞いて呆れる)
息を詰めながら、心の中で舌打ちする。
確かに、この風にまともに吹かれていれば、生き物、特に人間などは、ただひたすら、その甘さを求めて裂け目に飛び込みかねないだろう。粘りつくような饐えた甘い匂いは、アシャにはなじみだ。
(そうか……スォーガの地下で蘇っていたのか、ラーシェラは)
「ぐ…」
ユカルの苦しげな呻きが、風の音の合間に漏れ聞こえる。そろそろ呼吸が苦しくなってきたのだろう。アシャの肺も熱くなってきている。助かったのは、匂いに魅了されたのか、馬も平原竜も風に巻かれたままに呆然と竦み、動かなかったことだ。
もう限界かと思った次の一瞬後、彼らを取り巻いていた風は唐突に消え去った。
「ふ、うっ…」
跳ね起きるように体を起こし、髪を乱して息を吐く。びくりと震えた馬が、いまさら怯えて躍り上がろうとするのをなだめ、大気にもうあの匂いが漂っていないのを確かめると、平原竜にしがみつくようにして体を震わせ堪えているユカルに声をかけた。
「もう、大丈夫だ」
「うっ、はあっ…!」
激しく息を吐いて、ユカルも身を跳ね上がらせた。さすがに平原竜は落ち着いたものだ、主人が無事だと確認すればそれでよし、ゆっくりと大きく首を振り、名残の空気を振り払うように体を揺する。その上で、肩を上下させながら、ユカルはアシャを振り返った。
「今のが……『風の乙女』(ベルセド)…ですよね…?」
「ああ」
「もし、まともに被って、吸い込んでたら、どうなってたんです…?」
息を整えながら、ユカルは好奇心を満たした目で問いかけてくる。
「あの風にはラーシェラの花粉が混じっている。物狂いとはいかなくとも、「『風の乙女』(ベルセド)の住みか」へは十分引っ張り込まれているだろう」
「…自分で飛び込む…と…?」
ぞくりとユカルが身を震わせた。
「ラーシェラとは…」
「太古生物の一種だ」
乱れた髪をかきあげまとめ直しながら、アシャは応じた。
「……思考を持った植物、というところだな」
「そんなものが生き残っているんですか? 太古生物はみんな滅んだと聞いたのに」
「……」
訝しそうに首を傾げるユカルに、それ以上は答えず、馬を進める。もう少し問いたそうな顔をしながら、ユカルが付き従ってくるのに、小さく溜め息をついた。
(そうだ、生き残っているはずがないんだ)
昔語りは、人の生活を脅かす怪物達は全て滅んだと言い聞かせてきた。それは、繊細で脆い、人と呼ばれる種族を守るための心理的な方便だったが。
(滅びるはずもない、んだが)
滅びるはずがない、『運命』の存在同様、アシャがここにいる意味と同様。
だが、制御はできているはずだったのだ。
(ラズーン支配が日増しに弱くなる)
気配だけではなく、こうやって明らかな脅威として目の前に立ち塞がるのを実感するほどに。
(だからこそ、何としてでも『銀の王族』を集め、ラズーンに入ろうと皆…)
「?」
ふと、考えに沈むアシャの視界に、赤茶けた草や岩とは違った反射が飛び込み、本能的にそちらへ向きを変えた。再び吹き出したのは健やかで緩やかな風、揺れる草の陰に再び沈み込んでいこうとする紅の光に無言で速度を上げる。
「アシャ?」
それは小さな岩だった。気をつけなくては見落としそうな、地表に少しだけ突き出た何の変哲もない石くれ。
だが、その表面に、明らかに奇妙な光が反射している。
背後からユカルの操る平原竜の重い蹄の音が響いてくる。気になっていた岩まで来ると、アシャは急いで馬から飛び降り、しゃがみこんで手を触れた。




