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「おい!」
ユーノは辺りを見回して叫んだ。
「どこにいる?」
先を走っていたはずの平原竜もいなければ、呼び出したはずのシートスの姿もない。
呼びに来た男に従ってきて、いやに飛ばすなと思いつつ、仲間から見えなくなるだろう、これほど離れて何をするんだというあたりまで引っ張ってこられ、ついさっき、男は岩かどを曲がると平原竜もろともに姿を消してしまった。
(あいつの名前は何て言ったっけ)
野戦部隊全員の名前をまだ覚えていない。覚えていないうちに、額帯を受け、星の剣士などという異名を当てられたユーノと、何となく距離を取った隊員もいる。
そう言えば、あの男とはまだことばを交わしたことはなかったかもしれない。
「シートス!」
返ってくるのは沈黙のみ、応えはない。
周囲を見渡しつつ、あちこちを見回って、ユーノは嫌な予感に顔をしかめた。
(おびき出された?)
可能性は高い。
(でも、なぜ?)
手綱を引き、向きを変えようとすると、突然、曇り始めた空から風が吹き下ろし、赤茶けた草原をそよがせる。スォーガ特有の疾風だ。
「ん?」
波打つ草原を眺めたユーノの視界にふと、一カ所、妙な揺れ方をする部分が飛び込んだ。その部分だけ何かで区切られたように、草のそよぎ方がずれている。
近づいて思わず息を呑んだ。
そこには、かなり深いだろうという裂け目が口を開けていた。スォーガに時々見られる『風の乙女の住みか』と呼ばれる場所だ。遥か昔の大きな地震が、このように台地に傷を残したのだと言う。スォーガの風はこの裂け目を通り抜け、物悲しい声を上げて草原を走り抜けていく。
スォーガの人々は、それを『風の乙女』(ベルセド)と呼んでいた。ごくまれに、家畜がこの風に誘われて物狂いし、裂け目の中へ誘い込まれる。『風の乙女』(ベルセド)に呼ばれたと噂される現象だ。
薄暗い曇天の空は低く、光は重かった。裂け目の上層、ごつごつした岩肌はおぼろに見えるものの、下層から底は闇に沈んでほとんど見えない。裂け目の奥に引き込まれるような気がして、ユーノは慌て気味に体を立て直し、ヒストの向きを変えた、次の瞬間。
どっ。
「っ!」
衝撃に目を見開くと同時に、硬直した体が一気に背後へ持ち去られた。警告するように嘶くヒストの声が遠ざかる。馬の背中から軽々吹っ飛んだ自分の右肩に突き立っている槍、その朱房を、ユーノは呆然と見やった。
(なに……?)
明らかに野戦部隊の槍、味方の武器に射抜かれたことが信じられない。とろとろと流れる時間の中で、必死に答えを探して見回した目に、前の岩陰からのそりと現れたコクラノの姿が映った。それだけではなく、その後ろ、コクラノの背中を守る盾のような黄色のマント、モスの遠征隊、ジャントス・アレグノの姿もある。
(不覚…っ)
「っう!」
どさっと地面に投げ出され叩き付けられ、激痛に意識が明滅した。傷の痛み、衝撃の大きさ、何より視界に入ってくるコクラノのひねくれた笑みに吐き気がする。
「いい様だな、え? 星の剣士」
「くっ」
勢いよく槍を抜かれ、ユーノは小さく声を上げた。熱いぬめりが右肩からじわじわと背中へ腹へ広がっていく。
「運のいい奴だ、急所をそれてる」
ジャントスが皮肉っぽい笑い方をしながら屈み込んでくる。
「だが、そう幸運でもあるまいよ」
コクラノがにやにや笑いを顔中に広げながら、槍の穂先を拭う。
「…卑怯……者……モスと通……じた…のか……」
込み上げる吐き気と戦いながら、ユーノは呻いた。
「俺は自分の力を認めてくれるところへ行ったまでさ。それに、お前とは…」
相手は一歩、ユーノに近づいた。必死に体を引きずって後じさりをする。また近づく。また下がる。
肩の下でざらりと岩が砕けて転げ落ちる音がし、総毛立った。背後から吹き上げてくる冷たい風、あの裂け目に追い詰められたと知るのに時間はかからなかった。
にたり、とコクラノが笑み崩れ、片足をこれ見よがしに引き上げる。
「これまで、だ!」
「あ!!」
がっ、と激しい一蹴りがユーノを跳ね飛ばした。何を掴む間もなく、一気に裂け目に落とされる。
「さらばだ! 星の剣士!! あははははあああ!」
「く……ぅ…っ」
響く哄笑がみるみる遠ざかる。
落下していく、底なしの闇。恐怖が体を押し包む。
(裏切り……野戦部隊が危ない…)
「ユカ…ル…」
シートス。
「アシ…」
声は途絶えた。
ユーノの意識は体とともに、深い闇へと吸い込まれていった。