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「ヒストーッ!」
胸が張り裂けそうな苦しい息の中から、ユーノは一声高く愛馬を呼んだ。平原竜の中で騒ぎが起き、一頭の栗毛の馬が苛立たしげに棒立ちになり、天の嵐を呼ぶように高く嘶いた。自分を繋いでいる紐を泡を吹きながら噛みちぎろうともがく。努力は間もなく功を奏した。縛めを解かれた野性の獣よろしく、その名の白い星を額に白々と燃え上がらせながら、ユーノに向かって駆け寄ってくる。間近に来ると僅かに速度を落とし、ユーノと並走、ユーノが手綱を掴んだと見るや、振り回すように体を振って主を背中へと引き上げる。
息を呑むユカルの目の前で、奇跡のような安定感と軽さで馬を操り、ユーノは平原竜の中に走り込み、綱を次々と断ち切った。ようやく群れに辿り着いたユカルが、自分の平原竜に乗るのももどかしく、平原竜達が走り始める。
「オーダ……レイ!」
息を切らしたユカルの声が、それでも朗々と響き渡る。深い緑色の鱗を、燃え上がる炎よりも猛々しく輝かせて、平原竜は怯むそぶりさえなく、戦乱のまっただ中にそれぞれの主を捜して走り込んでいく。
「オーダ・シーガル!」
その一匹の手綱をぐい、と捉えて、平原竜の上に躍り上がったシートスが、手にした剣を高々と上げた。どよめきが戦いの混乱を渡っていく。平原竜に踏みつぶされる者、蹴飛ばされる者、暴走に巻き込まれて命を落とす者が続出し始めた。だがもちろん、伊達や酔狂で野戦部隊を名乗っているわけではない、仲間達は次々と平原竜に飛び乗り、或いは並ぶ平原竜の背中を渡り、それぞれの持ち平原竜に身をおさめ始めている。
「オーダ・シーガル!」
「オーダ・レイ! レイ! レイ! レイ! レイ!」
レイ、レイ、と後を続ける声が次第に増え出し、平原竜のたてる地響きと相まって怒濤のように『運命』とモス兵士を襲い始めた。一度怒れば一都をも灰燼に帰そうという平原竜の暴走の前では、『運命』の操る馬の激走など児戯に等しい。
レイ、レイ、レイ、と掛け声が上がる度に、『運命』の姿が見る見る少なくなっていく。
「はあっ!」
荒くれた平原竜の暴走の中で、ヒストに乗ったユーノの姿は目立った。
平原竜に追われ逃げ惑う『運命』の乗る馬は次々と蹴散らされていくのに、ユーノの乗るヒストは、まるで平原竜に守られてでもいるように悠々と進み続ける。しかし、よく見れば、馬を平原竜の中で遅れず急かさず操る腕がどれほどのものなのか、すぐにわかって誰もが感嘆の念を抱かずにはおられないだろう。
焚き火の炎が蹴散らされたのか、赤茶けた草原に炎の絵巻物が広がっていく。ほぼ同時に、『運命』、モス兵士の中から叫びが上がった。
「退け! 退くんだーっ!」
「!」
その後は素早かった。形勢不利と見ていた者が多かったのだろう、来た時と同じように、あっという間に、炎の照らし切れぬ夜闇へ消えていく。
「オーダ・レイ!」
平原竜の暴走に次第に制限を加えていきながら、シートスが叫んだ。手近の者に指示を与え、燃え広がろうとする火を追わせて踏み潰させる。
「はいやっ、ほうっ!」
乾いた草地を疾っていく炎に飛び込むのは並大抵ではない、だが、野戦部隊の面々は怯んだ様子もなく、先回りし、炎とじゃれ合うかのように軽々と、その道筋を蹴り潰し、消し止めていく。躍る炎、舞う土埃、翻るマントに火をもらう間抜けは一人もいない。炎の中を緑の鱗の平原竜が駆け抜けた後は、重く沈んだ黒色の闇が残るだけだ。
「オーダ・シーガル! オーダ・レイ!」
ユカルが汚れた頬に誇らしさを漲らせて、高々と叫んだ。物見としてはもっとも嬉しい叫び、勝鬨の声だ。
(倒されたのは10人ほどか)
ユーノはシートスの視線を追って、主のいない平原竜の頭数を数えた。
シートスにすれば、その状況は少々不満だったらしい。難しい表情で、ぼんやりと薄明るくなってきた空を睨みつけていたが、ふっと溜め息をつき、髭をしごいてユーノを見た。眉を上げ、苦笑して見せる。
「シートス」
「うむ」
ユカルが、例の紅い房のついた槍を手渡す。シートスは重く頷いて、それを受け取った。ゆっくりと天へ突き上げる。
「オーダ・シーガル! オーダ・レイ!」
「オーダ・シーガル! オーダ・レイ!」
声が唱和するのを待ち、シートスは気迫のこもった動作でそれを投げた。しなる筋肉に支えられて、槍は軽々と空を飛び、踏み荒らされ消された焚き火の跡に深々と突き刺さる。静まり返った闇にびい…ん、と端まで震える槍を見つめ、シートスが呟いた。
「同胞はこの槍の下に集い、槍の下に従い、槍の下に死んだ。それを忘れる者は野戦部隊たる資格はない」
無言で男達が頭を垂れる。
ラズーンに属するとはいえ、野戦部隊は独自の掟に基づき、時にラズーンを遠く離れて転戦する。互いの背中を預け、互いの最後を見届け合う。絆は、平原竜に跨がった瞬間から、固く強く結ばれている。
それは、厳しくも淡々とした野辺送りの儀式だった。
頭上に遥けく高まる天空と、足下に果てしなく広がる大地と、それぞれの存在の狭間に生きる、小さく脆い人間との。
(温かい)
ユーノは目を閉じ、小さく息をついた。
アシャ達とは違った安心が、ここにはある、ただ一人、コクラノの妙にぎらつく視線は気にはなるが。
ふ、とシートスが息を吐き、天を仰いで命じた。
「長居は無用だ! 移動する!」




