8
「……」
アシャは遠い空を見上げていた。
重くたれ込めた雲の彼方に白い反射を探す。だが、今夜もサマルカンドは帰ってきそうにない。
(一体どこにいるんだ)
眉を寄せる。心の中の嵐に耐えかねて呻きそうになる。
「アシャ」
イルファが呼ぶのに込めた力を解いた。のろのろと気のない動きで火の側へ戻る。
「焼けたぜ」
「…ああ」
岩とかげを突き刺した棒を受け取り、アシャは膝を抱えて丸くなっているレスファートに目を止めた。少年は沈んだ生気のない表情で、半眼にした目をどこかに彷徨わせている。
「レス」
「…」
イルファが差し出す岩とかげの肉にも無言で首を振るだけだ。こけた青白い頬、尖った顎、プラチナブロンドも心なしか、色褪せぱらついているように見える。ユーノを失ったことからくる憔悴が、少年の容貌を大きく変化させていた。
「食わなきゃだめだぞ、レス」
「……いらない」
「レス!」
「お腹すかないんだ」
「……ふう」
イルファはやれやれと言いたげに、それでも多少の心配は浮かべて溜め息をついた。
レスファートがユーノを失ったことに泣いたのは1日だけだった。次の日から彼は、泣かない代わりに、他の感情まで失ってしまったように表情を動かさなくなった。
「じゃあ、水だけでも飲め」
「…」
こくん、と器から一口。残りを静かにイルファに戻して、レスファートはまた膝を深く抱えてしまう。
(レスファート…)
イルファによると、母親を失った時もこんな状態だったらしい。
その頃のレスファートは、ほんの子どもだった。病気で臥せっていた母親が死んだのだということを理解し切れなかった。いつも微笑とキスを与えてくれた温かな存在が、突然彼を見捨てたように思えたのだろう。母がいなくなった後も、母の眠っていた寝室に通っては、誰もいないベッドに身を縮めて踞り、じっと母の帰りを待っていた。
見かねた王が無理矢理母親の墓に連れていき、母はそこだ、と宣言した。そのとたん、レスファートの心の堰は切れた。声を上げて泣き、墓にしがみついて、繰り返し母の名を呼んだ。それから、どうしてももう帰ってきてはくれないのだと悟ったのだろう。レスファートは唐突に泣き止んで、母は死んだのだ、という王のことばを頷きながら聞いたのだ、と言う。
(ユーノの生死がわからないのが、一層レスを追い詰めている)
痛ましい想いで、アシャは少年の虚ろな瞳を見つめる。
ユーノが死んでいるなら仕方がない。しかし、もし生きていたのなら、それはどういうことなのだ。母は確かに死んで側からいなくなった。だが、ユーノはもしかして、生きていてもレスファートの元へ帰って来てくれていないのではないか。つまり、もうレスファートと一緒に居るのが嫌になって、戻って来てくれないのではないか。
乗り越えたはずの疑いが、もう一度少年の心に蘇り、苛み続けているのだろう。
(俺もまた)
アシャもある意味ではレスファートと同じだ。
ユーノの生死を知るのが怖い。もし彼女が死んでいたとしたら、自分がどういう行動に出るのか、それを押さえ込めるのかどうか、今はかなり自信がない。世界を焦土としかねない『泉の狩人』(オーミノ)を解き放ち、ミネルバのように『運命』狩りを唯一の生きる意味として生き抜きかねない。
今ならお前の気持ちがよくわかる、そうミネルバに告げたのなら、きっと高らかに哄笑されることだろう、そなたにも人らしい心があったのだな、と。
「誰も食わないのか? 食うぞ? いいのか?」
それじゃあ、とイルファは相変わらずの健啖ぶり、焼いた岩とかげはことごとくイルファの胃の腑におさまった。
執拗な勧めに、レスファートがかろうじてほんの一切れ肉を口に入れ、さもまずそうに水で飲み下し、早々に天幕の中に引っ込んでしまう。たぶん今夜も眠れないまま、またじっと瞳を闇に凝らし続けるのだろう。




