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(どうして、この娘は目覚めない)
アシャは沼地に吸い込まれたような重い眠りの中で、ユーノが三日三晩目を覚まさなかったときのことを思い出している。
極度の疲労、止まらない出血、意識消失。
それはどれ一つとっても、大の男を命取りにする要素だ。
だが、傷ついて今、アシャの目の前に横たわっているのは、十七になるかならないかの少女、しかも、その危険な要素の全てを身に負っている。
浅い呼吸が静まり返った部屋に響いている。
(冷たい)
そっとユーノの手を取り、冷えきってしまっているのにぞっとした。医術師としての知識が、目の前の少女の、間近に迫った死の影を押しつけてくる。
無言で立ち上がり、掛け物を重ねても重ねても温かくならないユーノの体を優しく撫でた。やがて、少しためらってから、服を脱ぎ捨て、そろとそろとユーノの隣に滑り込む。ぐったりと力の入っていない四肢を引き寄せて、静かに強く、自分の体の熱を伝えるように抱き締める。いつもと違って、何の抵抗もなく自分に沿ってくる冷たい体が、ひどく華奢で脆そうで、今さらながら、相手の体が自分の腕の中に包み込んでしまえるほど小柄なのだと気づく。
(気がついたら蹴り飛ばされそうだな)
苦笑したが、冷えたユーノの中心が、どこか強張り緊張しているのに気づいて笑みを消した。
ユーノは依然目を閉じたままだ。睫毛が淡い陰を頬に落としている。幾度も死の淵に追い詰められているのに、誰をも呼ばなかった唇が、やや苦しそうに薄く開いている。
(誰も呼ばない……自分が死のうとしていても、付き人の俺さえも呼ばない)
締めつけられるような切なさが募って、アシャは眉をしかめた。
(いつも、こんなふうにずたずたになってから、俺の元へ戻ってくる)
そうしてアシャは考える、毎回毎回懲りもせず、どうしてこの娘は目覚めない、どうしてこの娘はこれほど傷つくまで戻ってきてくれない、と。
(それほど、俺の腕は信頼できないか?)
他の美姫達ならば、手練手管を尽くして求められるはずなのに。
(どうして)
「…ユーノ…」
湧き上がる切なさを込めて、アシャは静かに呼んだ。壊れ物を扱うように、額に落ちた髪をかきあげてやる。
「ユーノ?」
動作の何かが意識の底に届いたのだろうか、ユーノが微かに身じろぎした。が、それも一瞬のこと、再び昏々と眠り続ける……いや、しかし、気のせいだろうか、ほんの少し、その体がアシャの側へ寄り添ったようだ。
(ユーノ? 俺に?)
子どもっぽい戸惑いと喜びに心を揺さぶられて、近づけた唇を軽く相手の頬に触れたものの、それ以上は何とか自分を制して、アシャはユーノの体をそろそろと離した。掛け物に移った温もりを逃がさないように、隣で腕枕をしてやりながら横になる。見つめるのはやはり相手の顔、気の強そうな口元や厳しい頬の線をゆっくり視線で辿りながら、胸の中で話しかける。
(一度ぐらい、俺の名を呼んでくれる気はないのか…?)
ふざけて呼ぶのではなく、助けが必要なときに、自分の支えとなる信頼を込めて。
(けれど…)
お前が呼ぶのは、ひょっとしたらイルファ、なのかもしれないな。
「ふぅ」
思わず暗い溜め息をつく。と、
「…」
ふいにユーノの唇が何かを囁いて、はっとした。ぐったりしていた手が、誰かを探すように持ち上がるのに気づく。
「さ…む…」
掠れた声に思わず手を握って掛け物をかけ直し、ユーノの体を元のように抱き寄せる。
(やっぱりエネルギーが足りないんだな……すぐ体が冷える)
そのアシャの手を、まさに探していたもののようにユーノが握り返し、どきりとした。もう一方の手もアシャの方へと伸ばしながら、夢現の遠い声でねだる。
「い…か……ない…で…」
思わずきつく眉を寄せる。
(誰を呼んでる?)
幼い表情の相手が愛おしい。
(俺か? 違う、奴か?)
唇を引き締める。無意識的な動作を装った狡さ、ユーノの体に手を滑らせていく。手から腕へ、肩へ、首へ……顎へ。抱きかかえて包み込んで、そのまま、少し開いたユーノの唇に偶然に触れたように唇を重ねる。
(誰を呼んでいる?)
「ユーノ…」
一瞬唇を離し、堪え切れずに自分が呼んだ。吐息が柔らかだ。唇から零れた温かなものが、自分の唇を満たし、癒していくのを、経験したことのない揺らめく想いで受け止める。
(このまま攫って。『ラズーン』も『二百年祭』も捨てて)
唇を触れ合うか触れ合わないかで寄せたまま、迷う。
(このまま、全部奪い去って……忘れられぬ徴を刻みつけて)
胸が絞られるほど痛かった。唇だけでこれほど甘いならば、体の奥はもっと甘いに決まっている。
だが。
(ばかなことだ)
ひやりとした感覚が蘇った。
(俺が? この、アシャ、が『ラズーン』をどうやって捨てる? 俺が……俺こそが…)
続く思考は無理矢理断ち切った。そのまま動けずにいると、天上の管弦もこれほどの音色ではあるまいというような柔らかな声が囁いた。
「あ…しゃ…」
(俺を)
跳ね上がる心臓に目を見開き息を呑み、ユーノを覗き込んだ。
相手は目を開いていない。目を閉じたまま、けれど、まるですぐ側にアシャが居るのを知ってでもいるように呟く。
「短剣…は…」
「ある」
(ばかな、何をうろたえて)
今の今まで仕掛けていた欲望塗れの悪戯を見られていた気がして冷や汗が出る。震えそうになった声を必死にごまかした。
「よ…か、た」
(気づかれていたなら、拒まれていないということだろう…?)
いつもなら押し通す男の傲慢が、ユーノのことば一つに不安になる。低く優しく問いを重ねるのは、それこそ慣れた処世術だ。
「起きているのか? もう寒くないか?」
「う…ん……少し……」
やはりぼんやりと遠く応じる内容は予想範囲、無言でもう少し自分の体近くに引き寄せる。狡さを自覚しての計算は、ふう、と小さく息を吐いたユーノが、まるで幼子が父親の腕に潜り込んでくるような無邪気さに砕かれる。
胸に、ユーノの吐息が、当たる。びくりととんでもないところが疼いた。
「まだ……寒いか…?」
落ち着こうとはしている、だが自分の声が妖しい戸惑いに揺れている、危うげに、このままどこへでも堕ちていきたくなるように。だが。
「う…ん…」
ほぉ。
静かに吐かれた息は深い安堵に満ちていた。蕩けていくような曖昧な声で応じて、やがてすうすうと寝息を立て始める。体の奥の緊張も消え、緩やかにくったりと、アシャの体に全身任せて眠り込む。
(俺に…)
安心している。
ぞくり、と体の芯が震えた。
部屋は静まり返り、呼吸の音だけが湿った温かみで安らかに響く。
(俺、に)
その中で、アシャの体だけが、場違いな熱さ激しさで脈打っている。
「…く…」
苦く笑った。
「手を、出せるか?」
出せるわけ、ねえよな。
やさぐれた自分のぼやきに苦笑を深める。
これほど傷ついた相手に、これほどの安心を向けられて、押し開けるわけがない。
(それでも)
「俺を呼ぶときも…あるのか…」
口にしてみて、胸に広がった甘酸っぱい喜びも初めての経験だ。
「……なら……いいか」
自分の声が優しい、と感じた。
聞いたことがない、淡く消えそうな優しい声。遠く彼方の空から包み込んでくる薄い雲のようだ。
「今は……お前の枕でも………寝所でも……」
けれど、いつか。
その時には、と考えたとたんに、節操なく高ぶる自分に苦笑いしたが、ふと首もとに冷ややかで重苦しい風が吹きつけたのに、ユーノを庇うように抱き寄せながら、顔を上げた……。