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「おう、見られよ、客人」
ふいに、シートスが、その煙の上がる彼方の空を見上げて促した。上向いたユーノは鳥達が飛べぬ薄暗い闇を飛翔する影に気づいた。にっこり笑って、高々と左腕を差し上げる。
それをシートスは複雑な、しかし満足そうな顔で一瞥した。ユーノの左腕に軽々と舞い降りて来た白い姿に頷く。
「実は俺達がお前を見つけたのは、そのクフィラのせいなのだ。人には慣れにくいはずのクフィラが、何を知らせに旋回しているのかを知りたくなってな」
「そうですか。……ありがとう、サマルカンド」
「クェアッ」
真っ白な体躯に真紅の十字を額に刻んだクフィラは、夜もその額の十字の力で目的地を見定め飛ぶことができる。ユーノの左腕に爪をたてないようにそっと乗りながら、サマルカンドは甘えた声で鳴いた。
その一瞬、ひくりとユーノの体が強張る。傷の上にクフィラが乗ったのだ。だが、唇を噛むことすらなく、少し眉を寄せた程度で、クフィラの背中を撫でた。
「ユーノ」
シートスが低く深い声で尋ねてきた。
「幾つになる?」
「17」
「それでもう、傷を受けた左腕を庇わない癖と、右腕を空けておく習性を身につけているのか?」
「あ…」
ユーノは素早くシートスを見上げた。
せっかくの命の恩人の機嫌を損ねてしまっただろうか。
やや不安になって相手を見つめる。
「すみません。あなたを疑っているわけじゃありませんが…つい」
「なるほどな」
シートスは吐息をついた。
「どうやら、お前の戦いはこの旅で始まったようなものじゃない、もっとずっと昔からのものらしい」
(私の…戦い…)
ユーノは僅かにシートスから視線を逸らせた。
(うん……昔から……長い…長い戦いだよ、シートス)
そして、何と肌寒い想いだっただろう、その戦いに伴う記憶は。
「それだけの武人には、我ら野戦部隊も、心からの敬意を払わなくてはなるまいな」
沈んだユーノの気持ちを引き立てるように、シートスが口調を変えてにやりと笑った。
「ギヌア・ラズーンはかなりの遣い手と聞き及んでいる。その男を相手に持ちこたえていたお前と、是非手合わせを願いたいと仲間の幾人かが申し出ているのだが」
「え?」
ユーノはぎょっとした。2人が現れたのに気づいたのだろう、焚き火の近くに居た男達が、ちらちらとこちらへ視線を投げてくる。横顔を火に照らされた顔はどれも精悍、髭面あり、傷痕あり、誰一人たるんだ気配のものなどいない。
「まさか!」
「まさかではない。今回の遠征は意外に手応えがなくてな、皆、退屈しているのだ」
シートスはからかうように言い放つと、男達の方を向いた。
「オーダ・シーガル! オーダ・レイ!」
「オーダ・シートス! オーダ・レイ!」
炎を囲んでいた男達が、シートスの呼びかけに、わっと片手の拳を突き上げて応える。
「何?」
「栄えあれ、ということだ。栄えあれ、野戦の民! 栄えあれ、永遠に! 我らの祈りと言ってもよい」
「そうだ、栄えあれ、シートス、我らが隊長よ」
一番近くの岩に腰を降ろしていた、まだ年若い男が頬を上気させて続けた。
「こら。客人の話も聞かず、身内を褒めてどうするのだ、物見」
シートスが苦笑いして窘めるのに、ユカルと呼ばれた男は肩を竦めて見せた。物見と呼ばれるだけあって、はしこそうなきらきらした焦げ茶色の目をしている。
「ようし、皆、聞いてくれ」
シートスの声に、男達が雑談を止めて集中した。
「この客人は、ラズーンの『銀の王族』、セレドのユーノだ」
「何?」
「『銀の王族』?」
「しかし、そのクフィラは…」
「『銀の王族』が剣士などとは…」
「そして、彼の視察官は誰だと思う?」
騒然とした野戦部隊の声を軽く制して、シートスが問いかけた。続くことばを、それとなく予想した者がいたのだろう、ごくりと唾を呑む緊張した気配が広がる。聞き手の期待を焦らせたシートスが、薄笑みを浮かべながら言い放つ。
「アシャ・ラズーンだ」
うおおっという興奮した叫びが上がった。
「従って、我らは今日よりしばらく、アシャからの客人を受け入れることになる。皆、心して働けよ」
「おうう!」
地鳴りのように同意した男達は、それぞれに熱っぽい目でユーノを見た。だが、ユーノが戸惑っている気配をすぐに察したのだろう、どこか照れくさそうに、それぞれの仕事に戻っていく。
「我らはかつて、あの方の下で働いたことがあるのだよ。あの方はまさに真の武人、卓越した指導者、機を読み、策を練る最高の軍師だ。武術に優れ学を保ち、なおかつあの美貌だ」
シートスは焚き火の一角にしつらえられた場所にユーノを案内しながら、口髭に隠された口元に懐かしそうな笑みをたたえて、男達の興奮の理由を話してくれた。
薄い皮の敷物に座ったシートスの隣に腰を降ろす。ユーノの腕から離れたクフィラは、差し出された岩とかげの皿から投げた肉片を数切れついばんだ後、再び暗い空へと哨戒に舞い上がっていく。
「ボクはアシャのことはほとんど知らない」
問いかけるようなシートスの視線に、ユーノは呟いた。
「それほど凄い人なんですか?」
アシャの凄さは十分に知っている、が、ラズーンに絡んだアシャについては何も知らない。シートスは、そのユーノの知らないアシャについて話してくれそうな気配があった。
「ああ、それはもう」
シートスは皿から岩とかげの肉を取り、唇の端で噛み千切った。
「俺があの方と戦いに出たのは一度きり………『黒の流れ(デーヤ)』反乱のときだ」
淡い苦笑がシートスの日焼けした顔に滲んだ。
「その頃の俺の目ときたら、ひどく曇っててな。『黒の流れ(デーヤ)』の反乱鎮圧のためにラズーンから来る総隊長と聞いて、どれほどの男が出てくるかと思っていたが、あのようにきらびやかな容貌の持ち主が来たと知って、ずいぶんと荒れたものだ」
ぱちっ、と湿り気を帯び出した夜気に炎の中の木の枝が弾け、火の粉が舞い上がった。ユーノはもちろん、シートスの話を聞くように火の回りに集まり出した男達も、思い思いの格好で、ある者は酒杯を空け、ある者はとかげの串を手にしている。
「アシャ・ラズーン、が何者かさえ知らずにな……」
懐かしそうな声が続いた。




