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野戦部隊は、どうやら遠征の帰りらしかった。
赤茶けた草原を走破し、岩棚が重なり合うような窪地近くに来ると、まとめる声もかからぬのに、それぞれ勝手知った手順のように平原竜から滑り降り、鞍の後ろに括りつけていた厚布や棒や毛皮で天幕を張った。
部隊全体が定められた配置に従い、各自が天幕を張り終えたころには、雨はすっかり上がっていた。
男達が笑いながら、布で自分と平原竜の体を拭き、火を焚き、食べ物の調理にかかる。
ユーノは戸惑っている間もなく、先ほどの男に促されて、やや小振りの天幕に入った。ここで身支度を整えてくれればいい、と短く伝えられて、有難く服を脱ぎ、体を拭いて、ヒストに括りつけていた予備の衣服を身に着ける。かなり湿ってはいたが、これだけの火があってあたらせてもらえれば、すぐに乾くだろう。
雨に濡れて冷え始めていた髪をごしごしと擦っていると、入り口の垂れ幕の向こうで低い声がした。
「入るぞ、客人」
「はい、どうぞ」
顔を覗かせたのは声をかけてきた男だった。相手も濡れた服を着替え、裾を引きずるような焦茶のマントを、緑色がかった金属の鎖で胸元に寄せている。
「腕はどうだ?」
「たいしたことはありません」
ユーノは微笑した。
左腕はまだ微かに痺れているが、相手の意図が汲み取れないうちに手札を晒すわけにもいかない。
「助けて頂き、ありがとうございました」
「礼には及ばん」
男は穏やかな笑みを広げた。歳の頃は4、50ぐらいか。したたかな面白がるような光を目に浮かべて、
「俺はシートス・ツェイトスと言う。ラズーン野戦部隊隊長だ。遠目でしかとは見えなかったが、『運命』を敵とするものは、何者であろうと我らの兄弟と同じだと考えているのでな」
「『運命』を敵とするもの…」
「そうだ。ラズーンより、近在の『運命』に降りた者共を叩きに遠征してきたところだった。気づいてなかったかも知れぬが、お前が戦っていたあの男は、濃い『運命』の気配をたたえていると物見が言うのでな。たった一人を全軍で襲うまでもあるまいと、とりあえずはお前を攫う方法を取ったのだ」
「それなら」
ユーノは眉をしかめて唇を噛み、低い声で応じた。
「ボクもろとでも、あの男を葬った方が良かった」
「何?」
「あいつは、ギヌア・ラズーン。『運命』の王です」
「何と!」
シートスの黄色の目に野獣じみた光が宿った。
「それでは、あいつが『太皇』に背反し、ラズーンを滅ぼそうとする下劣な魂の持ち主か!」
「そうです」
応じながら、ユーノは不安になった。
ギヌアはユーノを屠るのに失敗した。となれば、また矛先を変えて、アシャ達を追撃にかかるだろう。
「まさか、あんなところで、それも不敵にもたった一人で現れるとは……。……しかし」
シートスは悔しそうに唸ったが、ふと気づいたようにユーノを凝視した。
「なぜ、お前はそんなことを知っている? 出で立ちからして旅の者のようだが、あまりにも軽装、かと言って、この辺りでお前のような姿を見たことがない………仮にもギヌアと立ち会える腕はただ者ではないと思うが……こちらにそんな旅人の情報は入っていない」
シートスの目は緩やかに細められた。
「お前ほどの者が、我ら野戦部隊に知られぬはずはない」
「申し遅れました」
相手の目の奥に宿った殺気に、ユーノは居住まいを正した。
「改めて名乗ります。ボクはセレドのユーノ・セレディス。ラズーンから招かれて旅をしていたところ、いきなり……あいつに襲われたんです」
「何」
シートスはますます訳がわからないという顔になった。
「とすると、何か、お前は『銀の王族』なのか?」
「一応は」
「しかし…」
シートスはなおも訝しげに、
「武勇に優れた『銀の王族』なぞ、いるとは…」
「ボクは…できそこない、なんです」
ユーノは苦笑いした。
「しかし、なあ、ううむ……。いや、おう、これはいかん」
納得しかねるという顔で首を捻ったシートスは、唐突にユーノを見た。
「客人を仲間に紹介もせず、こんな火の気のない所に凍えさせておくとは、俺もどうかしている。こちらへ来てくれ、皆が待っている」
促されて、ユーノは天幕を出た。
あちこちに点在する天幕の近くには、平原竜が数匹ずつかたまって休んでいた。滑らかな金属片を繋いだような緑色の鱗が、中央の広場に焚かれた炎にきらきらと光っている。尖った耳にはそれぞれの乗り手の紋章なのか、金、銀、青銅、赤銅などの薄板が挟みつけられ、見事な彫り物が施されていた。辺境のイワイヅタあり、『黒の流れ(デーヤ)』あり、クフィラあり。細工は様々で濃い陰影をたたえている。
「『銀の王族』には、視察官が1人、付き添っているはずではなかったか?」
先に立ったシートスが考え込んだ声で尋ねてくる。
「ちょっと途中で揉めて。ボクが飛び出してきてしまったんです」
ユーノは応じた。嘘はついていない。
「無茶なことを」
シートスは溜め息をついた。
「深窓育ちの『銀の王族』が、一人でラズーンへ向かおうとは正気の沙汰ではない。お前の視察官は誰だ? お前のような子どもに置き去られるとは、とんだ間抜けだな」
「えーと…」
ユーノはややこしくなった話の流れに口ごもった。
「『太皇』にご報告した方がいいかもな。いったい、誰なんだ?」
「……アシャ・ラズーン」
「何と!」
シートスは驚きのあまり、立ち止まってしまった。のろのろと振り返り、ユーノが嘘をついているのではないかと怪しむような様子でゆっくりと口髭に触れる。
「あの、アシャ、だというのか? お前は知らないかもしれないが、ラズーンの第一正統後継者……諸国放浪の旅に出てしまった、あの、アシャだと?」
「ええ、はい、まあ」
居心地悪くもじもじすると、シートスは静かにユーノを見下ろして呟いた。
「他の者なら疑いもする。だが、なるほど、それなら、ギヌアがお前を狙ったわけもわかろうというものだ」
続けて何事か言いたそうな顔になったが、考え直したように首を振り、火の側へユーノを導いた。
焚き火の間近で、数人の男が串に刺した岩とかげを焼いている。ジュッ、と熱い音がして肉汁が落ちると、香ばしい匂いが立ちのぼる。側の男は口から尻尾まで棒で貫いた岩とかげを次々と火に炙り、ひっくり返す。
岩とかげから上がる油っぽい煙と、炎それ自体から上がる清新な煙が入り交じり捻り上がって、あまり星の出ていない灰色がかった空へと錐のように差し込まれていく。
炎の熱が冷えた体と心をゆっくりと暖め、しばしユーノはぼんやりと炎を見つめた。