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皮肉なアシャの声に、セータは戸惑ったようにきょろきょろと視線を動かし、やがて静かに目を伏せた。
『わからない…』
『もう、視察官ではないはずだな? ラズーンはもうないのだから、視察官も不要だろう』
『ラズーンが、ない?』
驚いた顔は、世界の転覆を謀りながら、ラズーンという自分の基盤が失われることは考えていなかったと告げている。
『考えろ、セータ』
アシャは冷笑した。
『ギヌアはラズーンを支配すると言ったのか? では、ギヌアは、お前の言う、危うく脆い世界が崩壊した後に、このラズーンがどこまでどんな形で残っているのかについても話したんだろうな?』
ギヌアは知っている、『運命』が世界を覇した暁に、おそらくは今生きている『人』は存在しなくなることを。
だが、それをセータに語ってはいない。
世界の崩壊が起こった後に、目覚める者は『人』ではない、『運命』と太古生物のみ、もちろん、そこにセータの生きる場所など、ない。
『アシャ、私は…』
『お前は?』
『わたし、は…』
セータの瞳が虚ろに光を失った。
『わか、らない』
『わからないのか』
では、想像もできない、美しく正しい未来のために、お前はこれからも働くのだな。
『アシャ……私は……私は…』
セータは嗄れた声で尋ねた。
『間違った、のか?』
『自分で考えろ』
言い捨てて、アシャはセータから離れた。禁固は命じたが屠ってはいない。
(屠るにさえ価しない)
振り回されただけなのだ、ギヌアの語る幻に。
だが、セータのように考えるものはいないと、誰が言えるだろう。
そしてそれは、ラズーンの四大公でさえ例外ではない。
(特に、ラズーンの在り方に絶望しているアギャン公なら、不思議はない)
アシャはごろりと体を動かし、脚を組んで立てた。両肘を曲げて頭の下に敷く。
第一正統後継者ともあろう方が、何と言う子どもじみた姿をなさるんです。
昔よく詰られた癖だが、思考を詰めていくのにはいい。
アギャン公の裏切りについてはもう少し後でも手が打てる。
今早急に片をつけなくてはならないことが二つ、ある。
一つはギヌア一行をどうするか、だ。
(『泉の狩人』……)
苦い顔で考える。
『泉の狩人』はラズーン側でも『運命』側でもない。独自の規律と信念に従って動く一族で、彼らを生み出したラズーンからの命令と言えども安易に聞き入れはしない。
ラズーンを保ってきた『太皇』に対しては多少の敬意を払うが、だからといって、『太皇』に、彼らが一旦決めたことを覆させるほどの影響力はなかった。もちろん、現在、ラズーンを囲む諸国の動乱の中で『銀の王族』の洗礼を続けている最中、『泉の狩人』の説得のためとは言え、『太皇』がラズーンを離れるわけにはいかない。
(かといって、ギヌア達が『泉の狩人』に接近することを見過ごすわけにはいかない)
巨大な力を持ちつつ、世の動乱に関わろうとしない『泉の狩人』は、既に虚ろな世界に飽いている可能性があり、そこをギヌアが突くことができたら、『泉の狩人』達は『運命』側に組みするかも知れない。
(そんなことになったら)
ラズーン側にどれほどの勝機があろう。
ここは誰かがラズーン側の使者として出向き、こちらに味方するのは無理でも、少なくとも中立を守らせるように働きかける必要がある。
だがなまじな者では会見も果たせない。
もう一つはユーノのことだ。
(あいつを放っておけない)
どれほど怪我をしようと、どれほど死にかけようと、ユーノの無茶は止まらない。あの情熱とあの剣の才能で、次々死地へと飛び込んでいってしまう。
できればアシャが側に居たいが、『泉の狩人』への遣いとしてアシャ以外の人材が見つからない今、アシャ自身が使者にたつしかない。
問題はアシャのいない間、ユーノが大人しくしてくれるかということだ。
(『銀の王族』として洗礼を受けている間はいい。その後だ)
ラズーンの内情を知れば知るほど、ユーノはきっと事の矢面に立ちたがるだろう。リディノのように守ってくれる者の背後に逃げ込んではくれない。野戦部隊に戻るか、『銀羽根』に混じって戦うと言い出しかねない。受け入れる方も、名高い『星の剣士』がユーノであると知れば、ためらうことはないだろう。
(だから困るんだ)
アシャは眉を寄せて深々と溜め息をついた。
(もう少し、女性として自覚してくれないと)
『銀の王族』の癖に、どうしてあそこまで危ない目に遭いたがる。
(……やはり、そうなのか?)
唇を噛んで身を起こす。
『目覚め』ということばが頭の中で大きく響く。セータのことばが重なる。
一度崩壊してみれば、人々は自分達がどれほど危うく脆い世界に暮らしているのかを知るだろう。そこで初めて、人は己の生について考える……。
それはセータの使った意味とは別の意味合いで、アシャにはなじみ深いものだった。
ラズーンにおける『滅亡の必然性』。
『失われるべき』都、ラズーン。
代々の正統後継者の資質を持つものだけが知る、ラズーンの隠された意図。
(今がそうなのか?)
旅の途中で無意識のうちに吐いていたことばが真実だったのかもしれない。
『銀の王族』なのに、『どうして』ユーノだけが傷つく? 執拗に狙うカザドと『運命』の攻撃に、『どうして』この子だけが晒される?
守られるべき『銀の王族』。他の者への条件づけによって、世の幸せを約束された『銀の王族』。
なのに、狙われ、傷つく、ユーナ・セレディス。
(だから、ギヌアは今回の二百年祭を、ラズーン崩壊の時、『運命』が覇権を握る時と考えたのか?)
確かに、ギヌアはかつての正統後継者だ。ラズーンの成立自体が含んでいる大いなる賭けにも気づいていたからこそ、選ばれたのだ。そのギヌアが敵として『運命』に降りた時、当然、その知識も利用されたはずだ。
始めは一人の『銀の王族』から。
かつて『太皇』はそう話していた。
滅ぶべきラズーンの証は。『銀の王族』から始まるだろう、と。
「くそっ!」
アシャは口汚くののしった。
(何も、あいつでなくとも!)
ならば、ユーノが狙われ傷つくのは当然だ、世界が自らの強さを問うのだから。
ギヌアが正面からラズーンにぶつからず、『泉の狩人』を味方にしようとしたのも当然だ。ぶつかるのは、ラズーン崩壊か否かの瀬戸際、既に小競り合いをしている時期ではない。世界を継ぐに価する圧倒的な力を手に入れる必要があるのだから。
ギヌアがユーノを殺さずに手に入れようとしているのも、アシャへの復讐のためだけではなく、ユーノがラズーン崩壊を告げる因子ではないかと考え、自らの力の守り札としようとしたのかも知れない。いずれはユーノの血を流し、ユーノを生贄とすることで、ラズーン崩壊の時を世界に示したかったのかも知れない。
(出遅れた)
恋なぞにうつつを抜かしているから、と舌打ちする。打てた手をみすみす見逃した気がしてひやりとした。
(ぐずぐずしてはいられない)
アシャはベッドから降り、旅支度を整えた。アギャン公の分領地を横切る、同じ道では、ギヌアに追いつくことはできないだろう。たとえ追いついたところで、ギヌア含む『運命』相手に行く手を阻むことができるかどうか危うい。
(『氷の双宮』を抜けて、『黒の流れ(デーヤ)』に沿って遡るしかないな)
懐かしい道、以前も慌ただしい出立だったが、今の状況を考えれば穏やかな部類だったと苦笑しながら、アシャは急ぎ足に部屋を出て行った。




