1
「ふ、ぅ…」
アシャは疲れ切ってベッドの上に身を投げ出した。乱れた髪を額からかきあげる。暮れかけた日差しが窓から差し込んで来ているのを眩く見て、目を閉じた。
脳裏にさっきの出来事が蘇ってくる。
「お前か?」
「はい、アシャ・ラズーン」
会見用の個室で待ち構えていた男が深々と頭を下げ、片膝を突いて跪いた。男の髪は濃い灰色、耳に鈍い赤色の耳輪をつけている。
「『銅羽根』のグードスです」
「グードス? アギャン公の世継ぎだな?」
「はっ」
男は大柄な体を竦めた。骨張った長めの手足を僅かに縮める。
「ギヌア・ラズーンの一行が『泉の狩人』の所在へ向かったというのは本当か?」
「はっ」
グードスはますますかしこまり、アシャを見上げた。父親によく似た灰色の目に必死の色をたたえている。
「確かに私は、ギヌア・ラズーンの一行が、我らの領地である土地を横切り、『狩人の山』へ向かっていくのを目に致しました。一行はおよそ20騎、いずれも長期の旅支度で、おそらくは『泉の狩人』のもとへ向かったと思われます」
面長な顔に苦渋が浮かんだ。
「しかし、信じて下さるでしょうか、アシャ・ラズーン」
「何をだ」
アシャは厳しく相手を見つめたまま問いかけた。
「我ら『銅羽根』は、代々のアギャン公より、又『太皇』の命により、東門を守り始めて幾世代か過ぎております。しかし、少なくとも、私が長になってからは、ただの一度も、東門の侵入を許した覚えはありません」
絞り出すような声音、グードスも自分の目で見たとはいえ、起こった出来事の理解に苦しんでいるのだろう。
「待て」
アシャは相手の話を遮った。
「今お前は、ギヌアが『泉の狩人』のもとへ向かったようだ、と言ったな?」
「はい」
苦い表情でグードスは同意した。
「それに、アギャン公の分領地を横切り、とも言ったな?」
「はい…」
嫌々応じるように、相手は頭を垂れた。
「それなのに、東門の侵入は許していない、と?」
「はい」
振り切るように目を上げる。灰色の目が重く翳りながらも、何としても自分の務めを果たそうと決意したかのように、強い光を帯びた。
「信じて下さるでしょうか。私は『銅羽根』の名誉を重んじて、こうして単身遣いに参ったのです」
「だが」
アシャは静かに問いつめた。
「他のどこからも、門を破られたという訴えは来ていない。ラズーンの外壁が途切れるのは中央部の背後に聳える『狩人の山』の裾だ。『狩人の山』側から入るのはまず不可能、壁が途切れる部分も物見の塔からはよく見えるはずだ」
「存じております」
グードスは苦しげに唇を噛む。
「ということは」
「しかし、アシャ・ラズーンよ!」
きっと顔を振り仰いで、相手は訴える。
「我ら『銅羽根』は、決して東門の守りを揺らがせたりしておりません!」
アシャは無言でじっとグードスを見つめた。
ラズーン四大公のうちの一人、東のアギャン公は病弱で、世捨て人同然の暮らしをしていると聞く。何でも、ラズーンの未来を憂えて、分領地を治めることは治めているが、ラズーンの『太皇』に対する忠誠は薄いとも言われている。
ギヌアがよりよいラズーンの未来展望を話してアギャン公を説得したとすれば、東門の『銅羽根』とやりあうことなく、ラズーン内に侵入することも可能だろう。
(だが、グードスのことばに嘘の匂いはない)
「…わかった」
アシャは吐息とともに頷いた。
「そのことは後に判定しよう。今ここでは『銅羽根』の責任を問うまい。それより、ギヌア一行の方を何とかしなくてはな」
「はっ」
不満は残ったものの、ややほっとした顔になって、グードスは頷いたのだ。
(一体どうやって、ギヌアはラズーン領内に入れたんだ?)
アシャは眉を寄せる。
(アギャン公の裏切り……グードスも実は嘘をついているのか? それとも、アギャン公だけが裏切っていて、息子には知らせずにギヌア達を招き入れたのか? あるいは、他のどこかの門が破られていて、その持つ意味の恐ろしさに『羽根』が報告してきていないのか?)
いや、とアシャは考え直した。
(『銀羽根』の長シャイラにせよ、『金羽根』のリヒャルティ、『鉄羽根』のテッツェも、自分の仕事に誇りを持っている)
あの『銅羽根』のグードスにしたところで、きっと今度のことと、セータ・ルムが裏切り者として捕らえられたと耳にして、慌てて弁解に現れたに違いない。
(セータは東門から入ったと白状したからな)
数日前、アシャはセータを少々手荒に詰問し、彼が東門から『銅羽根』の守りを受けて入ったこと、ギヌアの配下としてラズーンを裏切り始めたのが、最近のことであることを聞き出していた。
『ふと、視察官の仕事が空しくなったのだ』
セータはそう呟いた。
世界のあちらこちらから、お人好しで無邪気で苦労知らずの『銀の王族』を守りながら、長く辛い旅をしてようやくラズーンへ辿り着いたところで、待っているのは、冷たく謎めいた『氷の双宮』だけだ。責務を全うしても、褒め讃えられることも、ましてや崇められることもなく、洗礼が終わればまたすぐ、『銀の王族』を連れてラズーンを離れ、その故郷まで送り届けてやらなければならない。
時に、洗礼を受けた『銀の王族』は不安を募らせ不安定になる、それを宥めながらいなしながら、故郷へ連れ戻してみれば、無事に連れ帰ったことへの感謝よりは、出立前と人が変わったように思える身内への苛立ちが視察官に向けられる。一体何があったのかと穏便慇懃に問いただされても、答えようがない。訝しげな視線に追い立てられるように再び、次の使者に立つだけだ。
その、地道で苦しい旅に、どんな報いがあるのか……何もありはしない。
世界はいつもと変わりなく続き、世の誰も、その世界の安定を支えるために命を落とし、苦労を重ねる視察官のことなど知りはしない。知らないからこそ、思いやることもない。
世界が平和に続いているから、だ。
ならば、一度、この世界を崩壊させてみてはどうなのか。
そうすれば、人々は改めて、自分達がどれほど危うく脆い世界に暮らしているのかを知るだろう。そして、それを支えていた力、自分達視察官のことにも気づくだろう。
そこで初めて、人は己の生について考え、視察官に正しい敬意を向けるのではないか。
『それは一つの目覚めではないのか、アシャ・ラズーン』
セータは疲れ切った顔で呟いた。
『人々をよりよい生活へ、よりよい日々へと歩ませる、正しい教導なのではないか』
声高に語られるのではない、しみじみとした実感に裏打ちされたことばは、その理論がどれほどセータの内深く強く根を張っているのかを思わせた。
厳しい職務、終わらない任務、それに比してあまりにも少ない評価が、自信を失わせ、セータを疲れさせた。少しでも某かの成果を手にしたいと思う欲望が、ささやかな釣り合いを保っている世界を転覆させてみたいという誘惑に引き寄せられた。
崩れた均衡を戻すことは、人の力ではできないものだとわかっているはずなのに、誘惑に堕ちたその後のことを考えない、思考停止がこの手の罠の常道だ。
『では、お前はどうするんだ?』
『え?』
『人々が目覚め、よりよい生活とやらに向かった後、お前は何をするんだ?』
お前にとっても無論、よりよい生活が待っているのだろう。それは如何なるものか、教えてくれ。




