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「姫の心を溶かすには
どれほど熱い想いがいるのか
どれほど深い祈りがいるのか
泉の側にたたずむ騎士の心は
妖しく乱れてままなら…ず…!」
詩いながら、何気なくユーノの部屋に目をやったアシャはどきりとした。
椅子を立ったハイラカがユーノを抱き締めている。ユーノもまた拒みもせずにハイラカの腕に身を委ねている。
「兄さま?」
「あ、ああ」
詩うことを頭からすっぱり放り出しかけたアシャは、促され慌てて続けた。
「……いつしか泉のほとりで
恋にうかされ
石と化す…」
(くそっ)
俺のユーノに何をしてくれている。
灼けつく怒り、荒々しく苛立ちながら最後の一音を弾き終わる。
「変わってるわね…恋歌、でもないみたいだし」
「ああ、そうだ。ガズラの古い詩で、昔語りの一つだよ」
リディノの問いかけに上の空で応える。
「ふふ…でも素敵だわ。だって、泉の底のお姫さまを想って、騎士がついに石になっちゃうんでしょう? ……私もそれほど想われてみたい」
「リディは大丈夫だよ。いつかそれほど惚れる男も出て来るさ」
「そうかしら、嬉しい」
はしゃぐリディノを見つめながら、アシャの目の奥には、さっきの光景が焼き付いている。
(肩が震えていた……泣いていたのか?)
ユーノはアシャの前ではめったに泣かない。ましてや、あれほど弱々しい姿を見せることなどないのに。
(俺ではだめなのか? おまえを受け止めてやれないのか?)
なぜなんだ? 何が足りない?
「あら…」
が、アシャの思考はそこで断ち切られた。
花苑の端から一人の男が走り出してくる。『銀羽根』ではない。しかも、相手はまっすぐにこちらに走り寄りながら呼びかけて来た。
「アシャ!」
「何だ」
ミダス公の客人として滞在している彼に、これほど早急に接近してくる相手は刺客か密使に限られている。側にリディノがいるのは一目瞭然、なのに呼びかけて来たことに眉を寄せた。
「すぐにおいでを! ギヌア・ラズーンの一行が『泉の狩人』の所へ向かったと『羽根』から知らせがありました!」
「何っ」
今この時期に、『運命』が『泉の狩人』に接触してくる理由は、おそらく一つしかない。
「すぐに行く!」
アシャはリディノに立風琴を渡し、走り出した。
「ごめん…」
ユーノは、ぐい、とハイラカの体を押して離れた。
「…どうかしてるんだ、今日は」
「君は女の子なんだから…」
ハイラカは抵抗することもなく椅子に戻り、優しく微笑んだ。
「もっと人に頼ることを覚えてもいいと思うよ」
「そう、だね」
笑み返しながら、ユーノは心の中で応える。
(でも、そうしていたら、きっと私はもっと多くの人を巻き込んで死なせていた…)
体に残っている傷痕がその証だ。まだ、アシャだったから、イルファだったから、自分の身は自分で守れ、しかもレスファートまで守る力を残している2人だったからこそ、仲間として側に居られた。
(もし、ハイラカ、あなただったら、私はきっと巻き込まないようにしただろう)
ハイラカは『銀の王族』、それとは知らずに守られることに慣れて来た人間なのだ。『運命』に出くわせば、ひとたまりもない。
(え?)
ふいに、ユーノは自分の考えたことにびくりとした。
(そうだ……無意識に守られてきた人間……『銀の王族』……だけど、私は)
覚えている限り、そういった保護を感じたことはない。それどころか、幾度も幾度も死の危険に自分を晒して生きて来た。
(性分だから? 守りたかったから? ううん、そんなことで破れる掟なら、特別な力を持たない『銀の王族』が生き残って来たはずはない。だって、『運命』は、私達が旅に出る前からラズーンに歯向かい出していたんだし)
それを言うなら、本来ならカザドに対しても、セレド皇族は『銀の王族』として手出しできない存在として『条件付け』されていたはずではないか。
「どうしたんだい?」
「あ…ううん…何でもない」
答えながら、ユーノは妙な違和感を覚えた。
(どこか変だ……どこか、おかしい)
『氷の双宮』から帰って来た夜、寝付けぬままに考えていたことが、心の中でもやもやと固まり始める。
(来訪者が、そこまで素晴しい力を持っていたなら、どうして二百年ごとの狂いをどうにかしなかったんだろう。狂い自体をどうにもできなかったとしても、何とかそれまでの安全な期間を伸ばすとか、別の再生方法をもたらすとか、狂い始めたら『銀の王族』が集まるまで装置を止められるようにするとかしなかったんだ?)
ユーノでさえ思いつく疑問に眉を寄せる。
(いや、それより前に、生命を再生するほどの力を持っていた前の世代の人々は、『種の記憶』の狂いを予想できなかったんだろうか? ほんの少しのずれでもずれはずれだ。気づかないにしては、あまりにも大きな問題じゃないか)
現に、その『ずれ』のために、『氷の双宮』に生き残っていた人々は、お互いに殺し合って滅びてしまった。来訪者が来なければ、この世界は死に絶えていたかも知れないのだ。
(ほんの僅かな偶然が重なって、やっとこの世界は回復したのか?)
自らの滅ぶ先を見据えて、その先へ新たに命を繋ごうとした人々がすがるには、あまりにも細すぎる糸のような気がする。
(ならば……どういうことなんだ?)
ユーノは目の前のハイラカに意識を戻した。
「ハイラカ」
「ん?」
「あなたも『銀の王族』として、『太皇』に謁見したんだよね?」
「うん」
相手は呆気にとられたような顔で頷く。まじまじと見つめる瞳は、ユーノの顔とそこに現れた何かを読み取ろうとするような表情、やがて茫然とした驚きの顔が次第に妖しい惑いにためらうような顔になる。ユーノをじっと見つめながら、ハイラカは何かを待ち望むように、軽く首を傾げ、身を乗り出した。
「その時、どんなことがあったの?」
「…どんなこと、って」
ユーノの問いに、ハイラカはゆっくりと瞬きした。夢に落ち込もうとしていたのを堪えるように、軽く唇を噛み、低い囁きで応じる。
「いずれ…わかるよ」
「今、知りたいことがあるんだ」
「…わかった」
何を聞きたいのか、よくわからないけど。
ハイラカはそう前置きして話し出した。




