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時は少し遡る。
宙道の中でユーノに置き去られたアシャは、これ以上ないほどの不機嫌さを撒き散らしながら、短剣をおさめた。
ユーノの後を追おうにも馬は動かず、腹立ち紛れに飛びかかって来た兵を情け容赦なく切り捨てて、それでもなお怒りがおさまらない。
(一体、誰のために、何のために、俺が宙道を選んだと思ってる、あの馬鹿は!)
心の中で喚き散らして、ふいにアシャは我に返った。
(そうだ……俺はまだ、それをユーノに伝えていない…)
激情がみるみるしぼんでいくのがわかった。
(結局は、俺のせい、なのか?)
駆け去る寸前、ユーノはしきりと宙道の出口のことを聞いていた。あの時から、ユーノの頭にはこの計画があったのだろうに、アシャはそれを感じ取れなかった。
「レス…」
そこでようやく、アシャは自分の足下で丸く体を縮めているレスファートに気がついた。屈み込むと、少年は傷に巻かれたユーノのチュニックの切れ端を押さえたまま、声もなく泣き続けている。
「大丈夫か?」
「どうして…」
ひくりとしゃくりあげながら、レスファートは目を見開いた。濡れたアクアマリンの瞳が眩いほどに煌めいて光を放つ。
「どうして、いつも、ぼくをおいていくの?」
ぽろぽろ涙を零しながら、レスファートは体を起こした。差し伸べたアシャの手に縋って、左脚を引きずりながら立ち上がる。
アシャはレスファートの前にしゃがみ込み、相手の顔を覗き込んだ。
「どうして、ゆーの、ぼくを…」
「レス…」
痛々しくなって、少年をそっと抱きかかえる。
レスファートの問いはそのままアシャ自身の問いでもある。まるで、自分が小さな子どもに戻って、ユーノを求めて泣いているような気がした。
(どうして、俺を置いて行く?)
「俺だって、同じだよ、レス」
つい、弱音を吐いた。
「アシャ…」
う、わあっ、と堰が切れたよううに、いきなりレスファートはアシャにしがみついて泣きじゃくった。
ユーノをかけがえなく慕っているレスファートにとって、ユーノに置き去られたことは母親に捨て去られたことと同じように思えるのかも知れない。体中を震わせ、もはや傷の痛みもわからぬように、ユーノ、ユーノ、と繰り返しながら泣き続ける。
「…まあ……いい度胸、だよな」
イルファが溜め息まじりに呟いた。
「自棄、と言った方がいいのかも知れんが」
「ああ」
重く応じながら、アシャはレスファートを抱き上げて立ち上がった。顔に両手の甲を押し当て、ひっく、ひっく、と息を引いているレスファートに優しく囁く。
「レス、泣くなよ。ユーノはきっと大丈夫だ。何かあったら、きっとレスを呼ぶだろう。それを聞いてもらわなくちゃならない。泣いてちゃ、わからないだろう?」
「ひっ……う、うん…」
レスファートははっとしたように頷いた。頬の涙を、慌ててごしごしとこぶしで擦る。
「それに、お前が泣いていると馬が怯える。俺達がユーノを探しにいくのが、一層遅れるぞ」
「ん」
きゅ、とレスファートは唇を結んだ。赤くなった目の縁や鼻の辺りをなおも擦りながら、何とか泣き止む。だが、突然支え手を失った不安が強いのだろう、片手でしっかりとアシャの首を抱えて離さない。
それと見てとったイルファがのっそりと馬に跨がった。両手をレスファートに差し伸べる。
少しためらった後、レスファートはイルファの方へ両手を伸ばして体を移した。
「レス」
イルファは少年の小さな体を抱き取って鞍の前へ乗せながら、珍しく真面目な声で続けた。
「あいつは大丈夫だ。あれだけの男が、そうやすやすと殺られるはずがなかろう。俺はあいつの腕を信じるぞ」
そのイルファの声には自覚していないのだろう、密かな尊敬がある。
(あれだけの男、か)
アシャは複雑な思いで宙道の彼方へ目を向けた。
「あ…あ?」
ユーノは思わず小さく声を漏らした。てっきり押し寄せた平原竜の下敷きになったと思ったのに、大群は自分を避けて巧みに周囲を駆け抜けていく。
(あれだけの速度を出しながら、よくこれほど見事に私達を避けていける)
一糸乱れぬ統制で、平原竜の群れは、ユーノの周囲に僅かの隙間を空けて、動く壁を作っている。
それはまるで、ギヌアの目からユーノを囲い込むかのようだった。
ヒストが今にも走り出しそうだったが、あまりの驚きに気力が萎えたのか、嘶き首を振りながら、その場から動こうとしない。
流れる深い緑の壁を呆然と見つめていたユーノは、その中から、より鮮やかな緑の肌をした平原竜が、群れの中をするするとこちらへ走り出てくるのに気づいた。
(誰だ?)
乗っているのは、野戦部隊に共通した褐色の肌の大柄の男だ。硬そうな黒い短髪と口ひげをたくわえている。瞳は鈍い黄色で、鋭い光をたたえているものの、ユーノを見るとどことなく和らぎ、側まで平原竜を寄せて来ると、何かを叫んだ。
「え?」
やや小止みにはなっているものの、赤茶色の草原に降る雨音と平原竜の足音でよく聞き取れず、ユーノは首を傾げた。それをすぐに察したらしい。男は濡れた黒髪をかきあげてから、その手をぐい、と平原竜の向かう方向へ伸ばした。
(来い、と言っているのか?)
平原竜のどこに呑まれたのか、姿のないギヌアを探したが、いずれにせよ選択の余地はない。今再び対峙すれば、もうもたないだろう。
ユーノは、そっとヒストの腹を蹴った。ぶるるっ、とヒストが首を振り、何か憑き物でも落としたようにゆっくりと向きを変える。やがて、周囲を走る平原竜の中にじんわりと紛れ込みながら、ふてぶてしい様子で体を揺すり、小さく嘶いた。雪白達と走ったことを思い出したのかも知れない。
そのヒストの動きにぴたりと体を合わせ、ユーノは馬の背中に身を伏せた。男がにやりと笑い、それでもふと気遣わしげにユーノの左腕を見る。だが、それも一瞬、手にした紅の房飾りの槍を突き上げ、一声高く叫んだ。
「オーダ・シーガル! オーダ・レイ!」
びく、と体を竦めたヒストに、ユーノは体をひたりと寄せる。安全と安心を体温と動きで保証する。馬の怯えはすぐにおさまった。
「オーダ・シートス! オーダ・レイ! レイ、レイ、レイ、レイ!」
どう、っと周囲の平原竜の乗り手からも声が上がった。さすがのヒストも、今度は今にも縮み上がりそうだが、ユーノへの信頼か、それでも堪えて走り続けてくれる。
「オーダ・レイ! オーダ・シーガル!」
男が再び声を上げると、レイ、レイ、レイ、レイと掛け声が戻ってきた。
(どこへ行くんだ?)
群れから離されまいと、ユーノはヒストを必死に駆った。
ギヌアの悔しげな叫び声が空を衝いたようだったが、さすがにいくら『運命』の王と言えども、たった一人では、100騎近い野戦部隊相手に立ち回る余裕はないと判断したらしく、すぐに声も気配も消え去った。