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宙道の闇には、朝も昼も夜もない。
それは深く重く沈む暗闇で、人によっては遥か太古の原始の夜を、あるいは胎児の時に温もりとともに感じていた闇を思い出させる。
「ユーノ?」
「目が覚めた、レス?」
少年は頷いてイルファの背中から滑り降り、ユーノの側へと走り寄った。不安な様子でユーノの手を探り、ぎゅっと掴まってくる。小さな汗ばんだ手を安心させるように握り返してやりながら、ユーノはぼんやりと見える相手に微笑んだ。
「怖いの?」
「だいじょうぶだよ!」
声が甲高く割れたところをみると、やはりかなり怖いらしい。くすりと笑って、アシャに問いかける。
「どのぐらい国を飛ばしている?」
「たぶん、六、七つは」
(アシャ、疲れてる)
声の張りのなさに改めて相手を見直す。
アシャは顔に汗を浮かべ続けている。髪の毛が額に張りつき、疲れた気配の顔に開かれた唇はいつもより濃い赤に染まっているようだ。常に精神を張り続けている疲労のためか、表情が頼りなげな妖しいものに見える。吐き出される息は熱っぽい。
これほど疲労困憊した様子のアシャを、ユーノは見たことがなかった。どんな危うい状況でも、いつも憎らしいほどの余裕で冷静で平然としていて、闘っている最中でさえ自分の見目形の良さを利用するしたたかさの持ち主、そういう男がアシャだと思っていた。
宙道を進み始めて半日ほどたったあたりで、宙道への慣れを含めて半日ほどを休息に使ったのだが、その程度ではアシャの体力は回復しなかったらしい。
(やっぱり四人がきついんだ)
ユーノは唇を噛んで眉をひそめた。
アシャを疲れさせているのは、ユーノ達に他ならない。自分にもう少し力があれば、と考えている。
同じような想いでユーノを案じて、アシャが眠れぬ夜を過ごしたことがあるとは考えつかない。ましてや、アシャが宙道を四人で踏破するなどという無茶をしているのが、極端なことを言えば、ただユーノを傷つけないためだけなどとは思いつきもしていない。
「しっかしまあ、不気味なところだな、宙道ってのは」
戦いの最中でさえのんびりと聞こえるイルファの声が、さすがに薄気味悪そうに響いた。アシャが苦笑し、まるで演技のような艶やかな動きで額の汗を拭いながら応じる。
「まあな。一般人は通らないところだし……慣れていないせいもあるだろう」
「使っているのは視察官だけ、ということか」
イルファがさりげなくアシャのもう一つの役割を口にした。
「ああ」
言外の意味を汲み取ったのか、アシャは一瞬軽く目を閉じた。
イルファが言った「視察官だけ」ということばは、その地位にある者、という意味ではない。その能力を持つ者、という意味を含んでいる。つまりは、視察官以外の、アシャと同等の力の持ち主、たとえばギヌアなら追ってこれるな、と暗に確認したのだ。
「厄介だな」
「そうならないようにする」
そっけなく言い切ってアシャは唇を結んだ。これ以上無駄な体力は使う気がないという気配、余裕のなさに、ユーノは思わず口を開く。
「アシャ。少し休もう」
「ん? 疲れたのか?」
そうじゃない、と口を尖らせかけたが、思い直してユーノは頷いた。
「うん、ちょっと」
「わかった、小休止していこう。あまりのんびりしていられないんだが」
どこからどのように空間が遮られているのかわからない暗さの中、アシャは見えない壁に沿うように腰を落とすと、深く体を曲げた。肩が軽く上下している。拭き取ったはずの汗が滑らかな頬を流れていく。
「疲れがとれたら起こしてくれ…」
言うや否や、膝を抱え込んですぐに眠りに落ちる。同時にあたりの空間が狭まったような感覚があった。気のせいか、息苦しい。
「アシャ、もうねちゃった。つかれてるんだね」
アシャを覗き込んだレスファートがユーノを振り返る。重く頷くと、側に腰を降ろしてもたれてきた。
「ぼくはちっともねむくない」
「そりゃ、レスはしょっちゅう寝てたから」
混ぜっ返すイルファを、レスファートはじろりと睨んだ。
「だけど」
「ん?」
「ラズーンまで、後どれほど国があるのか知らないけど、こんな状態じゃ、アシャ、もたないよ」
ユーノが思わず呟くと、イルファも頷く。
「ああ……それに、厄介な問題も残ってるしな」
「ギヌア・ラズーンのことだね」
頷き返す。
ギヌアはアシャと五分五分渡り合える遣い手と聞いている。今の疲労し切ったアシャにギヌアが倒せるかどうか怪しい気がする。
「気にいらねえ奴だが、腕は確か…」
言いかけたイルファがことばを切った。立ち上がりながら抜けて来た闇を振り返る。
「…らしいね」
視線に応えて、ユーノも同じように暗がりを見やった。
「何? どうしたの?」
「しっ」
わけのわからぬ顔で尋ねてきたレスファートを制する。
「追手だ」
「どれぐらいだと思う?」
「そうだね…多いな……二、三十人はいる…」
応えた自分の声が殺気立っているのをユーノは感じた。
アシャが自分達四人を通すのに疲労困憊する宙道に、これだけ大量の追手を送り込める『運命』の首領、ギヌア・ラズーン。彼一人でも十分な力を持っているのに、今ではその追手の中にカザドも入っている。
「アシャを起こすか」
これだけの気配に、アシャはまだ目を覚まさない。それは、彼が限界まで力を使っていることを意味している。
(できれば、もう少し休ませてあげたい)
「いや」
首を振り、ゆっくりと剣を引き抜きながら、ユーノはひたひたと迫って来る気配に対峙した。