忘却の彼方3 姉想いの妹(2024年編集)
~ 島根県、松江市 ~
「着いたぞ、松江市だ」
島根県の東部に位置し、県庁所在地でもある同市は、人口、十九万の中規模都市だ。宍道湖と中海に、挟まれるこの町は、松江市の玄関と呼ばれ、青山の表参道よりも、面積は小さい。芸術の町と言うよりも、どちらかと言えば、漁業が盛んな地域である。和尚の話では、伊藤翔子は、若くして、絵画の夢を諦め、九条大河の支援に、尽力したと言う。九条大河亡き今、この地に留まる理由は、何だろうと、佐久間は、知ろうと思っていた。
愛知県豊田市で、川上真澄の妹、伊藤翔子の居場所を知った佐久間たちは、その足で、名古屋空港へ行き、運良く、キャンセル待ちが取れたので、出雲空港に飛んだ。連絡バスで、最寄りの、松江しんじ湖温泉駅に到着したのは、十八時を過ぎた頃である。到着するなり、山川は、溜息をついた。
「警部、随分とまた、遠くに来ましたな?今朝、東京にいた我々が、昼頃、愛知県にいたかと思えば、今度は、島根県に立っています。あのクソ坊主も、人が悪いですな?それにしても、もっと、強烈な、磯の香りがすると思っていましたが、思ったよりも、感じませんな?風向きでしょうか?」
「和尚は、何も悪くないよ。お願いしたのは、我々だしね。磯の香りが少ないのは、宍道湖が淡水化したからだよ。十三世紀に、塩分の高い水域に生息する、プランクトンが激減して、淡水で生きる種が増えたと、判明しているんだよ。だから、昔は、もっとしたのだと、思うよ。それより、こんな時間から訪ねても、夕食時だ。まずは、米子町の下見をしがてら、松江城を拝んだら、今夜は、松江の酒を飲んで、明日の午前中に、訪問しようじゃないか」
山川とは対照的に、伊藤翔子との対面が、待ち遠しい佐久間は、松江の夜を、純粋に満喫したくなった。
「松江といえば、酒処です。酒倉が、本当に多いんです。銘酒『豊の秋』、『李白』、『國暉』は、ぜひとも、警部に勧めたいですな」
「では、世話になる松江市に、貢献する為にも、今夜は飲もう。山さん、奢るよ」
二人は地図を頼りに、しんじ湖温泉入口交差点から、国道431号の宍道湖北通りを歩き、鍛冶橋交差点を左折し、北上した。幸橋で、右折して、京橋川沿いに進むと、程なくして、町の入り口に、辿り着いた。
「地図では、この先が、米子町エリアだ。実際に来てみると、町というよりは、通りの規模だね」
「ええ、本当です。埼玉県川越市の、メイン通りと、ほぼ同じでしょうか。三百メートルくらいしか、ありませんよ。ただ、何というか、道路整備は進んでいて、平面空間が広く感じますな。それに、区画が、碁盤の目のように、しっかりしています」
「緊急輸送道路に、指定されているのだろう。ところで、山さん。何故、日本の道路が、左側通行になったか、知っているかい?」
(………?)
唐突な質問に、山川は、戸惑った。
「考えた事も、なかったです。でも、言われてみれば、不思議ですよね。外国は、右側通行が多いし、日本人も、右利きが、大多数。警部は、知ってるんですか?」
「うん、調べた事があってね。実は、明治維新後に、制定されたんだよ。まず、日本は、近代化の一環として、フランス陸軍、その後は、ドイツ陸軍を手本に、制度設計をした。その時は、まだ右側通行だったのだよ」
「本当ですか?じゃあ、どうして、左側通行に?天皇陛下が、お決めになったんですか?」
「いいや。決めたのは、後の、警視総監だよ」
(------!)
「日本のルールを、警視総監が?」
「面白い、逸話があるんだ」
~ 松江市、北田町の居酒屋 ~
山川が勧めた、銘酒を注文し、酒の肴に、地元の特産品を楽しむ。大和しじみ、宍道湖の七珍、高津川の鮎、あご野焼き、めのは、出雲そばである。
「やはり、これらは、鉄板ですな。これだけでも、来た甲斐があります。ところで、先程の続きを、聞きたいですな」
ほろ酔いの山川は、興味津々で、続きを待っている。
「どこまで、話したかな?」
「警視総監が、決めたところまでです」
「確か、左側通行になったのは、1900年。明治33年だったと思う。警視庁令を見れば、載っているよ。この時はまだ、警視総監ではなかったが、松井茂という人物が、西郷隆盛の実弟、西郷従道と話し合って、決めたらしい」
(------!)
「たった二人で、決めたんですか?法整備には、議会承認とか必要なんじゃ?」
「そんな事は、しなかったみたいだ。逸話は、これだけではない。まず、左側にする事を考えたのは、松井茂。これは、間違いない。理由はなんと、『根拠は全くないが、何となく』らしい」
「何となくですか?それで、あっさりと?」
「あっさりではないよ。その為に、当時、『日本陸海軍建設の功労者』と言われる、西郷従道を説得する、必要があったのさ」
「まあ、そこは分かります。当然、西郷は、松井茂に、根拠を求めたんですよね?」
「うん。でも、松井茂のある言葉と、手振りで、あっさりと納得し、支持に回ったと言う」
「どんな手を、使ったんですか?」
「こうやったんだよ」
佐久間は、その場で立つと、左の腰から、刀を抜く真似をする。これを見た山川も、思わず、納得してしまった。
「確かに、何となくですな。武士が、左腰に、刀を差していたからか。だから、武士出身である西郷も、納得した訳だ」
「その通りだよ。左から刀を抜き出す姿と、左側通行のイメージが、重なったんだ。そして、この話し合いから、とんとん拍子で、法制定されたんだ。そもそも、日本の法律だって、素案は、坂本龍馬が船中で書いた、船中八策だったらしいからね。だが、これがもっと、法整備されてからの議論だったら、右側通行だったかもしれないね」
「いやあ、中々、興味深い話でした」
「明日は、もっと、興味深い話が、聞ければ良いがね。全ては、伊藤翔子次第だ」
伊藤翔子は、どんな人物なのだろうか?和尚の話から察すると、『姉想いの苦労人』というイメージが、脳裏をかすめる。親孝行らしいので、分別のある女性で、日頃から、九条大河からの悩みを、聞いていたに違いない。少しでも、九条大河の情報を、引き出せたらと、堅い喉に、酒を流し込んだ。
~ 翌朝、十時。松江市、米子町 ~
訪問の連絡をしていない為、頃合い時間の、十時を待ってから、伊藤翔子を訪ねた。
伊藤翔子は、アトリエを自宅に改築し、芸術丸出しの家に住んでいた。外装も、漆黒に塗り替えられ、宇宙を題材にしたのであろうか、木星と星々が、浮き出て見える。遠目でも、一目で分かった。
(ピンポ---ン)
「は---い、どちらさま?」
佐久間が想像していた、寡黙で、どこか悲壮感が漂う人物とは異なり、心地よい風を、運んでくるような所作と、風貌にまず驚いた。
(これが、妹の伊藤翔子か。…面喰らったな)
佐久間は、警察手帳を提示したうえで、丁寧に挨拶する。
「警視庁捜査一課の、佐久間と申します。お姉さんの九条、…いや、川上真澄さんの事で、伺いたい事があって来ました。途中、大樹寺に立ち寄り、あなたへの伝言を、承ってきました」
伊藤翔子は、端的に話す、佐久間の姿勢が気に入り、微笑んだ。
(丁寧な口調と、物腰低い仕草。…これが、佐久間警部か。心地良いが、第一印象ね)
「どうぞ、散らかってますが」
佐久間たちは、アトリエに入ると、写真を織り交ぜて、和尚の伝言を、まず伝えた。
「和尚は、一言だけ、『色即是空』と、仰いました。伊藤翔子なら、これで、伝わると」
(………)
「なるほど、色即是空ね。父さんらしいわ。…ふふふ」
伊藤翔子は、アトリエを紹介しながら、茶を振舞い、話し合いに応じる。独創的で、斬新な彫刻や、針金を加工して、製作された黄金竜、油絵、水墨画など、多岐に渡る作品が、奔放な性格を表している。
(先入観とは、恐ろしいな。聞いた話とは、真逆のイメージだ)
「九条大河は、佐久間警部に、会ったことは?」
「残念ながら。作品の愛読者なので、どんな方か、お目にかかりたかった。でも、何となく、想像は出来ました」
「ふふふ、双子ちゃんだから?」
「はい、その通りです。九条大河も、心地良い風を、お持ちだったのでしょう」
伊藤翔子は、テーブルに寄り掛かりながら、紙に、『色即是空』と書くと、佐久間に尋ねる。
「この意味は、お分かりになりますか?」
「いえ、さっぱりです」
「色即是空は、諸説ありますが、お答えします。色即是空とは、般若心経に出てくる言葉で、分かりやすく、噛み砕くと、『全ての理は、永遠には栄えない、不変でない』という事ですわ」
(………)
山川は、この手の話が、大嫌いである。聞こえない振りをしている。
「和尚は、伊藤翔子に、何故、その言葉を?」
「父さんは、九条大河の死は、永遠に、悲しみは続かない。時だけが、癒やす薬だと、言いたいんだと思います。和尚らしい、言い回しでね。直接言えば、良いのにね」
(………)
「流石は、和尚の娘さんです。感心します」
そして、佐久間は、親子関係を理解する。
「和尚は、伊藤翔子に、気を遣っているのだと、分かりました」
(------!)
伊藤翔子は、その言葉に、息をのんだ。
「流石、九条大河が、見染めた男。『一言えば、十を理解する』のね?」
山川には、二人の会話に、ついていけない。
(一言えば、十を理解?俺には、伊藤翔子の言葉が、少ないだけだと思うんだが)
「私には、意味が分かりません。どう意味でしょうか?伊藤翔子さんと警部は、話が噛み合っているみたいですが、私のような、空気が読めない男には、サッパリで困ります」
佐久間が、伊藤翔子の代わりに、解説する。
「つまり、和尚は、面と向かって、翔子さんと、悲しみを共有したかったが、義理の父に気を遣い、仏語で想いを伝えた。翔子さんも、そんな和尚の、気持ちを理解した。互いに心、つまり、胸の内を共感したという事だよ。日本人には、間接的な表現で、相手の気持ちを、察する能力があるからね。詫び・寂びとか、曖昧とかだよ」
「はあ、そうなんですか。何となくは、分かりますが」
伊藤翔子は、すっかり、佐久間を気に入ったようだ。
「全く、惚れ惚れするわ、佐久間警部の嗅覚。九条大河に、聞いた事がありますの。兎に角、べた褒めでした。語弊があるのかもしれないけれど、『丁寧で、綺麗な日本語を使って、理路整然と、事件を解決していく刑事』だと。それも、意識して話すんじゃなくて、自然体で、きちんと身についているから、人としても、参考になると」
「それは、光栄ですね。生前にお目にかかって、教えを請いたかったです」
和やかな雰囲気の中、伊藤翔子は、本題に入ろうと、姿勢を正す。
「…佐久間警部。あなたの人柄を、見させて頂きました。そのうえで、生前に、九条大河から、佐久間警部への、伝言を預かっています。九条大河は、死後、佐久間警部が、ミステリーの謎を解いて、必ずや、妹である、伊藤翔子の元へ、訪ねてくると予期して、…いえ、切望していました。佐久間警部は、九条大河の、想像以上でした。なので、遺言通り、伝言を伝えます」
(------!)
(------!)
伊藤翔子が、戸棚から、和紙の手紙を取り出すと、佐久間も、姿勢を正した。
「……承ります」
「『紅の挽歌』は、最後のピースで完成し、必ず、佐久間警部は、九条大河を捕まえる。いえ、九条大河の心を、昇天に導いてくれ、強引にでも、ミステリーを完結させてくれる。佐久間警部は、人の理、人生の起承転結を知る、数少ない人間。来世では、佐久間警部の妻より、先に出会い、今度こそ、自分が正妻になりますわ」
「えらく、惚れられましたな?」
「男冥利に尽きるね」
「伊藤翔子には、九条大河が、佐久間警部を慕い、反面、知恵比べをしてみたかった想いが、良く分かります。佐久間警部が、伊藤翔子を訪ねてきたという事は、おそらく、事件が起きてしまった。全てを解決して、旅立ったのならば、本懐ですが、それも、叶いませんでした。でも、最期の小説内容を、お伝えしたくても、中身を見ていないんです。今は、これしか、話す事が出来ません。…ごめんなさい」
「いえ、九条大河から、そのように想われていたとは、嬉しいです。残念ながら、九条大河が、一連の事件に、関与した事は明らかで、警察組織は、事件解決に、総力を挙げなければなりません。例え、被疑者死亡のまま、書類送検されたとしても、どうか、伊藤翔子だけは、九条大河を信じて、ご供養ください」
「……はい。ありがとうございます」
(…着信だ)
「警部、ちょっと失礼します。電話が入ったようです。外で話してきます」
二分後。
席を外した山川が、佐久間に、小声で用件を伝える。
「豊田市で、新たな被害者が出たようです。『二名絞殺』との、愛知県警察本部からの情報です」
「…分かった。今回の件は、愛知県警察本部に任せよう。我々は、警視庁に戻った方が、良さそうだ」
「『紅の挽歌』は、最終段階に入ったようです。また、機会があれば、お話を伺いたいと思います。皆さんの気持ち、十分に、理解しました。何とか、九条大河を、救いたいと思います。その為には、口惜しいが、直ぐに戻らなければなりません。本日は、急な訪問にも関わらず、お話を聞かせて頂き、ありがとうございました」
「…九条大河を、何とぞ、よろしくお願いいたします」
佐久間たちは、次を見据えて、帰途についた。




