理解出来ない相手
椿、と雀を呼んだ男を、雀は胡乱げに見遣る。
胸に突っかかる何かがその名にはあるが、雀は"椿"ではない。見知らぬ人とはいえ、自分の顔を指差して他人の名前を呼ばれる事は、あまり愉快なものではなかった。
「…椿って、誰か知らないけど、私は雀よ。その、椿って人じゃないわ」
「椿、じゃ、ないのか…?」
「だから、そう言ってるでしょ!」
喚く様に訴えれば、男は動揺した様に、「やっぱり」「いやでも…」と口内でのみ言葉を完結させている。雀はその様子に異質さを感じ、無意識に一歩後ずさる。
「…おい」
「…なんだ」
今まで様子を伺っていた武蔵が男に話しかけ、男はそれに対してやや警戒したように答えた。丸腰でどうするつもりなのか、と雀は一瞬考え、ふと目線を男の手の先にやったところで、人間ではおおよそあり得ない程の長さと鋭さを持った、殺傷性のありそうな爪を見つけ、ゾッと血の気が引いた。
「まず、俺たちはあんたの敵、ではない。一先ず今の段階では」
「………」
「あんたが村の入り口で血を流して倒れているところを、雀が見つけて今まで介抱してたんだ。あんたの事情は知らんが、少なくとも命を狙うつもりは毛頭ない」
武蔵の言葉に、男はやや疑惑の眼差しを向けたが、一先ず信じる事にしたのか、警戒した姿勢を解き、布団の上に胡座をかいた。その仕草は、武蔵に話を促しているようだった。
「…わかった。一先ず信じる」
「そうか。なら、俺の質問にも答えて欲しい」
「なんだ」
「あんた、神族か」
男はその直球な質問に面喰らった様な顔をしたが、次第にその顔を歪めながら憎々しげに「ああ」と武蔵の言葉に皇帝の意を返した。分かっていた事だがやはりそうなのか、と雀は目の前の存在を恐れる。
「だからなんだ。俺を殺すか?」
挑発する様な、それでいてどこか諦めた様な、そんな口調と表情で雀と武蔵に問いかける。武蔵は暫くそんな男の様子を伺っていたが、やがてはぁ、と息を吐いた。
「そんなつもりはない。分かっていてこうして介抱したんだからな。…神族の回復力なんぞ知らんが、あんたの怪我、簡単に見積もって全治一ヶ月だ」
武蔵の言葉に男は痛みを思い出した様に顔を顰め傷口を押さえる。
「俺は医者だ。神族だろうが怪我人を放り出したりするつもりはない。だが、面倒ごとにこの村が巻き込まれるのは御免だ」
「………」
「一ヶ月。此処であんたを世話する。一ヶ月経ったら、此処を出て行ってくれ」
武蔵の言葉に、男ははん、と鼻で笑った。
「なめられたもんだな。俺はな、人間如きに世話にならなきゃならねえ程落ちぶれちゃいないんだよ。一ヶ月後だぁ?こんなちっぽけな村、今すぐ出てってやらぁ」
男は息巻いて雀達にそう宣言し、自分の服装を見遣り顔を顰めた。そして部屋をきょろきょろと見渡し、雀にその焦点を合わせた。ーーー正確には、雀の手元に。
「っ!?」
そして雀の持っていた着物。ーーー男の当初着ていた衣類を、強引に奪ったのだ。
慣れた手つきで狩衣を身に纏う男に、雀はどこかでぷちりと何かが切れる音を聞いた。
それは雀の血管の切れる音、基堪忍袋の尾の切れる音だったわけだが、完全に頭に血が上った雀にはそれを知る術は無く、また、今の雀からしたらそんな事はどうでもよかった。
父と母を早くに亡くし、祖母がずっと親代わりだった。
村のまとめ役として、巫女として、村中から信用を集める祖母を心底尊敬し、こうありたいと雀は祖母の後継を担う為に良き人間であろうと、穏やかであれと、ずっと己に言い聞かせてきた。
だから村の人間でもない素性の知れない男とて介抱した。血で汚れた着物を洗い、世話してやった。
別に雀は、その行為に感謝の意を抱けだとか、厚かましいことを言うつもりはなかった。助けたのは雀の意思で、男が望んだ事ではないからだ。
だが、これはどうかと、思うのだ。仮にも助けられたにも関わらず感謝の一つも述べず、憎まれ口を叩くだけ叩き、好意を無碍にしておいてそれを当然の様に享受する。
雀は狩衣を簡単に身に纏った男につかつかと歩み寄った。男は男で、何か気にかかる事があったのか着物を暫く探った後に、傍に寄ってきた雀を見遣り口を開いた。ーーー開こうとした。
「おいてめぇ、俺のーーー」
バキッ、という破裂音の様なものが部屋に響く。目の前で起こった状況を、武蔵は唖然と見ていた。
雀が、男を叩いたのだ。雀の手は平手であるし、叩いたという表現が一番正しいがその音は、叩いた、というよりも殴ったという方が適切である様な気がする程の音だった。
武蔵からすれば、男の一連の傲慢な態度は想定内のものだった。貴族のお抱え医師だった武蔵は幾度となく貴族の傲慢さを、そしてそれを周りが受け入れる事を当然としている厚かましさを見てきた。神族とて、傅かれる側の存在に相違ないのだ。武蔵からしてみれば、先程の言葉はあくまで医者としての立場から述べただけであり、男が自分から去ると言っているのなら喜んで送り出すつもりだった。
だが、雀は違った。ずっと村で育ち、雀の世界はこの小さな村にしかない。穏やかな祖母に育てられ、その祖母を支持する村人に見守られ育った。人の善意しか見てこなかった少女は、見知らぬ男の傲慢な態度が理解できず、我慢も出来なかったのだ。
叩かれた男は何をされたのか当初理解できなかったのか、衝撃で逸らした顔をそのままに、暫く石の様に固まっていたが、じわじわと頬に遅れてやってきた痛みと共に現状を理解し、次いで目の前の女の凶行に沸々と怒りが込み上げてきた。
「ってめえ!なにしやがる!」
男は鋭い眼光で雀を真っ直ぐ睨みつけるが、雀は怯むことはなかった。
「あんた、ここまで手当ても世話もして、その上暫く此処に居ても良いとまで言った私達に、何か言うことないわけ?」
「ああ?」
男は雀が何に怒っているのかが心底理解できぬと言いたげな表情を浮かべる。事実、男からすれば雀が何を言いたいのか理解できなかった。
「…なんかって、なんだよ。意味わかんねえ事言ってんじゃねえぞ!」
雀は信じられない思いだった。人の好意に気付けない程に傲慢な目の前の存在に、唐突に種族の差を教えられた心地になった。
「は、はあ!?あんた、ありがとうも言えないわけ!?親に何を教わってきたのよ!」
「煩い女だなてめぇ。…そのお綺麗な顔を切り刻んでやってもいいんだぞ」
「はあ!?」
「雀!」
男の言葉に反応したのは武蔵だった。こんなにも感情的な神も見たことはなかったが、仮にもこの男は神族なのだ。切り刻む、という言葉がただの脅しとは到底思えなかった。
「…この子が悪かったな。出て行くならさっさと出て行ってくれ。何か必要な物があるなら、可能な限り揃えてもいい」
「おじさん!私間違った事言ってないわ!なんでおじさんが謝んなきゃならないのよ!」
「雀。お前の言いたい事は分かった。だが、今は俺に従え」
世の中には正しいものが淘汰される事もあるのだと、そんな事もわからない程度には雀は箱入りなのだ。
男もこれ以上面倒ごとにするのは嫌だったのか、顔を顰めながらもそれ以上雀に言い募る事はなかった。
「…ちっ。おい、なら俺の問いに答えろ」
「…答えられるものならば」
「俺が倒れてたっつう辺りに、透明な牙が落ちてた筈だ。それの所在を教えろ」
「き、ば…?」
もしやと雀と武蔵は一斉に雀の手元に目を遣った。その手に乗っている透明な石を目にした男はそれだ!と声を上げ、大股で雀との距離を縮めた。
「きゃっ…!」
「それは大切なもんなんだよ!さっさと寄越せ!」
「ちょ、やめてよ!」
「!」
無理やり雀の手から強奪しようとする男に雀は思わず抵抗する。まずい、と武蔵がその間に入ろうとしたが、そうする前に事態は急変した。
男が突然雀から勢いよく後退したのだ。その勢いに、抵抗していた雀は驚いて男を見遣る。
だが、一番驚いていたのは雀でも、ましてや武蔵でもなく、飛び退いた男自身だった。
「っつ…!て、てめえ、俺に何しやがった…!」
「な、何って…」
雀からしたら意味が分からなかった。むしろされていたのは雀の方である。にも関わらず、男はまるで雀が何かしたと決めつけているようだった。
「まさかてめぇ、魔術の類が使えるのか…?くっそ、まさかこんな小娘が…」
「ま、魔術?」
使える訳がない。魔術が使えるのは魔族だけだ。
ーーーこの世界には三つの種族がいる。
一つは人族。最も数が多い、この世界の大半を担うのがこれにあたる。
そして神族。彼等は普段は別の場所にいるが、人族よりも強大な力を持ち、人族を支配している。
そして最後にもう一つ。それが魔族だ。
魔族も神族と同様に人族の及ばぬ強大な力を持っている。だが、神族と魔族には大きく異なる部分がある。
魔族は、人を喰らうのだ。
喰らわずとも魔族は生きることは出来る。だが、魔族はただ娯楽の為に人を弄び、時に操り、嬲り、そして喰らうのだ。生きたままの、人を。
だから人族は、神族を頼ったのだ。魔族に唯一対抗できる手段として。
神族は魔族よりも強い。それ故人族は神族に頼る事で、漸く平和を得る事が出来たのだ。代わりに、神族に支配される事を許すこととなったが、神族に頼らなければ人族はまともに生きることも出来ないのだ。
雀は魔族など見たことがない。普段神族により囲われているこの国に、魔族は干渉する事ができないからだ。
だから今の人々は魔族を半ば御伽噺のような存在として捉えている節がある。怖いとは思えど、実感がないのだ。見たことがないのだから。
「魔術なんて使える訳ないでしょ!私は人間よ!?」
「じゃあこれはなんだ!?普通の人間が、俺に傷なんてつけられるはずがねえ!」
「え…」
男は先程雀が振り払った手を見せつけた。そこには火傷したかのような爛れた傷があった。男を介抱した時には確かになかったそれは、雀がつけたことを物語っていた。
「そ、そんな…!私じゃない!」
「確かにてめぇから放出された力だ!まさかこんな辺鄙な村に魔族がいるなんて…」
「それは魔術ではなく、結界術ですよ」
突然、部屋に雰囲気にそぐわぬ穏やかな声が響く。部屋にいた三人が声の方を一斉に振り返る。
「花枝さん…!」
「お、おばあちゃん!どうして此処に!?」
「いやねえ?雀が朝の社の掃除からいつまで経っても戻って来ないから社に行ったらいないんだもの。早起きな武蔵さんなら何か知っているかしらと思って此方に伺ってみたんだけど、なにやら大変そうだったから」
緩やかに話す雀の祖母である花枝の声はやはりこの場にはそぐわぬ穏やかさだったが、誰もそれを遮るものはいなかった。
「花枝さん、此処は…」
「武蔵さん。私もね、こんなに生きてるとそれなりに色々なものを知っているの。当然、神族だって見たことがあるわ。そこの御仁は、神族の方なのでしょう?」
「………」
武蔵は花枝の問いに無言で肯定を返した。花枝はにこにこと、常の笑顔で男の方を見遣った。
「お初にお目にかかります。私はこの子…、雀の祖母の花枝と申します。お話の途中でごめんなさいね。でも、どうやら貴方が勘違いしてるみたいだったから、訂正しなくてはと思ったの」
「…勘違いだ?それが、さっきあんたが言ってた事と関係あるのか」
不躾な態度の男にも変わらず花枝は笑顔のまま男の問いに頷く。
「まず、雀は魔族とは一切関わりないわ。正真正銘私の孫だもの」
「なら、その力はなんだ。ただの人間が、そんな力を持っている筈がない」
「そうね。この力は、なんて言ったらいいかしら。ある種人間だけが持った特殊な力なのだけど」
花枝は相変わらずにこにこと笑みを崩さず、なんとなく花枝だけ見れば今日の朝餉の内容について語っているかのような気楽さだった。
「神族は神力を使って神通力をお使いになるでしょう?魔族は魔力を使って魔術を使う。それと同じで、私達人間には、…と言っても一部の人間だけれど、霊力を使って結界術というものを扱う事ができるのよ」
それに驚いたのは男だけではなく、武蔵と雀もだった。そんな話は初めて聞いたのだ。
「全員が使える訳じゃないの。霊力って、ある人と無い人がいるみたいでね。この村で使えるのは、私と雀くらいだわ。他の場所にいけば、もっといるかもしれないけれど」
分かってくださったかしら、と相変わらず穏やかな表情の花枝に男は動揺が隠せない。花枝の今の話が大凡理解できないものなのだろう。
「この村もね、結界術によって囲われてるから、魔族は勿論、並大抵な神族であったら入れない様になっているのよ」
「え、で、でも、この人は…」
「経緯は知らないけれど、貴女が引き入れたんじゃ無いのかしら。結界を敷いたのは私だけれど、今は雀の霊力で結界が動いているから、雀の意思で入れたなら、神族も魔族も入れるでしょうねえ」
その言葉に、そういえば男は村の入り口の前で倒れていたのだ。それを手当てする名目で引き入れたのは自分だった。
「だからねえ、今は少し危険なのよ。神族が結界内に入ってしまったから、結界が緩んでしまったわ。それなりに手練れの神族や魔族ならば、この村に入れてしまう」
「…で、でも、早々この村に態々来たがる奴なんて」
「いいえ。此処はね、とても魔族からすれば魅力的な所なの。…正確には、この場所にある、ある物がね」
「え…?おばあちゃん、それって…」
その時だった。家の外から、村人の悲鳴が響いたのは。