私と貴方の始まり
ドロドロとしたファンタジーが書きたくなった、などと供述しており…。
雪溶けが始まっているといえど、早朝の風は未だ冷たい。外気に晒された頬にあたる風に、雀はブルリと身震いし、肌を粟立たせた。
しかし弱音を吐いたところで状況が好転するわけではない。父母を幼い頃に失い、聡明だが年老いた祖母をこのような寒空の下に晒すわけにはいかないのだ。
雀は気合を入れ直し、己の役割を果たすべく社に向かう。早朝の社の清掃は、代々蝶々村の巫女として祀られた日向家の仕事なのだ。先代の巫女であった母亡き今、その役割は雀にあった。
水を汲んだ桶と雑巾を抱え村の外れにある社に向かう途中、村の入口付近に何か大きい物が横たわっていることに気付き目を凝らすと、雀はそれが人である事に気付いた。
「え、う、うそ…」
雀の村は着くまでに面倒な行程がいくつかあり、旅人で此処に偶々辿り着く、という事は早々ない。現に雀は、十六となった今迄、村の外部の人間と会った事すらなかったのだ。
初めての外部の人間に驚きつつも、人命が第一であると慌ててその倒れている人に近付く。寒さのせいか、この村の早朝はいつも霧が出る。その為、雀はその横たわる人影を、漸く正確に視認することができた。
「…これって、」
倒れている人影の正体は男だった。
六尺程ありそうな大柄なその男は、新雪の様な眩い白銀の長い髪を垂らし、冷たい土の上に寝そべっていた。髪だけを見れば女かと一瞬見間違いそうにもなるが、その体格と凛々しい面立ちが男であることを主張している。
「うっ…、」
眠っているのかと思わせる穏やかな表情をしていたが、一転して表情を歪める男に、雀は混乱した思考を頭の隅に追いやり、慌てて男の介抱にあたる。
男の傍らにしゃがみ込み状態を伺おうと後頭部に手を差し込み、上体を起き上がらせようとすると、ぬるりとした感触が手に巻き付いた。
慌てて手を頭から引き出すと、その正体が血であると、その色から判断することができた。
雀は顔から血の気を引かせ、弾かれる様に立ち上がり、倒れた男に背を向け村の中に駆け出した。
男を助ける人手を得るために。
* * *
「そこまで酷い傷ではない。傷ついた場所が偶々血が流れやすい場所だったようだ。倒れた原因も、怪我よりも貧血が主なようだ」
村の唯一の医者である武蔵は、今は元々着ていた服を脱がせて新しく着せた服に身を包み、床で横になっている男を一通り診た後、表情を変えず私に伝えた。私はその診察に、ホッと張り詰めていた息を吐く。貧血ならば、安静にしていれば大事ないはずだ。
「ありがとう、武蔵おじさん」
「なに、他ならない花枝さんの孫である雀の願いだ。聞かないわけにもいかんだろう」
相変わらず表情を変えずそう答える武蔵に、雀は苦笑して応じた。
雀の祖母であり、現在は唯一の肉親でもある花枝は、村の立役者の一人でもあり、村の初代の巫女であった。
優しく、穏やかで、信心深い花枝は、村の内外問わず、様々な人から好感を抱かれ、信用される人柄の女性だった。
武蔵は元々はもっと栄えた街の出身であり、貴族のお抱えの医者であったのだが、困っていたところを花枝に救われ、以来恋慕にも似た感情で花枝に心酔している。名誉ある地位を捨て、この村に単身で転がり込んだのだ。
花枝は特別美しいわけではないが野花の様な素朴な愛らしさのある女であり、それは老婆となった今も変わらず、周囲に愛される存在であり、頼られる相談役だった。
武蔵と花枝の間には少なくとも二十以上の歳の差があるはずだが、武蔵には何の問題もないらしい。若い頃に病で亡くなったとはいえ、花枝は既婚者でもあり、子持ちでもあるのだが、それもさしたる問題ではないようだ。
武蔵はもう四十過ぎの歳ではあるが、男らしい精悍な顔立ちは雀から見ても好感の持てるもので、無愛想であることを差し置いても、彼さえ求めればこの歳でも美しい妻も得られそうなものなのだが、武蔵の心は未だ花枝にしか傾いていないらしい。
「しかし、…厄介なものを拾ってきたな」
雀の思考は武蔵の少し疲れた様な声に引き戻される。
「………」
雀は手元にある男が当初身に纏っていた服を撫でる。
それは上等な絹であった。麻で出来た服を身に纏う事が普通な雀達にとって、御目にかかる事のない代物である。
そして、何より髪だ。雀は村の人しか見たことはないが、本などの文献からしても、人というのは基本的に皆髪色は黒である。歳をとれば髪は白く染まっていくが、この男のそれは明らかに老いで枯れた様な髪ではなく、生来の白銀の髪だった。
そこから導かれる男の正体とはつまり。
「まさか…」
「信じ難いが、…恐らく、この男は神族の一人だ」
神族。
それは人間とは決して混じり合うことのない存在だった。
彼らは人間には持ち得ない圧倒的な力を有し、この世界を、人間を支配し管理をしていた。
神と言っても彼らは一見人と変わらない容姿をしている。人には無い美しさを有しているが、それ以外ならば人と大して変わらない。ものを食べ、会話し、寝て、そして子も産むのだ。
しかし人とは明確に違う。
例えば彼らは歳をとらない。
年に一度、国の中央に位置する相模という地では降神祭というものが開かれる。ただ神々が列になって神の国から行進するというだけの催しだが、信心深い者にとってはそれは何よりも神聖な儀式であるのだ。
そこで現れる神の姿は、何年経っても変わる事はなく、その神々しさを此方に見せつけ、そして実感させるのだ。ーーー人間と神は違うのだ、と。
また神は人には持ち得ない力を使う。
天候を操り、天災をも自由に巻き起こす。神が願えば大地は割れ、海は荒れ、この世に地獄を引き起こすのだと言われている。
そして何より人でないと思わせるのは、彼らが死なないという、その事実だ。
遥か昔、神に支配される事に辟易とした男が居た。男は降神祭の際に、刀剣を持って行進していた神の一人に斬りかかった。男はその行進の見物客の中でも最前列におり、周りが気付いた時には、既に刀は振り下ろされようとしていた。
誰もが死んだと思った。男が刀を振り下ろしたところから血が噴き出し、神は倒れ、男は周りの神によって処されるだろう。もしかしたら、この気の違った男は他の神にも斬りかかるかもしれない。
そんな思考が周囲の人間の頭に瞬時に過ぎる。しかし、静寂に包まれたその場所で、カキン、という場違いな鈍い金属音が響いた。
確かに振り下ろされたその刀は剣先と持ち手の部分が離れ離れになり、刀としての様式を保てず、男の所有から外れた剣先は地面に垂直に刺さる様にして落ちた。
今頃血塗れである筈の神は傷一つ無く、何も無かったかの様な顔をしていたという。
恐怖に怯えた男はそのまま神によって連行され、後日首だけの姿になって男の家に飾られていたという。
その様な事件もあり、人は神に忠誠を誓わざるを得なくなった。そうしなければ次に胴体と泣き別れになるのは己だからだ。
神族と人間は関わってはいけない。
神は人を、世界を統治し、人は神に年貢を納める。
その距離感を崩してはならない、と言われている。
雀の知る神族の知識など大したものではないが、しかしそれにしても疑問は残る。
「…文献には、神は傷つかないと聞いたわ。でもこの人はこうして怪我を負っているわけでしょう?矛盾してるわ」
武蔵はふむ、と雀の疑問に頷く。次いで「予測だが」と前置いた。
「俺も以前勤めていた貴族から聞いた話で、詳しくは知らんのだが、同等の存在である、神同士ならば傷をつける事が可能だとか」
「神同士…」
つまり同士討ちということだろうか。神の内情は知らないが、一枚岩というわけでもないのだろうか。
雀の内心の疑問を読み取ったのだろう。武蔵は目の前の神と思われる白銀の男を横目に、言葉を続ける。
「神族、と一言で言っても、その中にも種族や勢力は存在する様でな。具体的には知らないが、この男の様子を見るに、完全に統率されているわけでもないようだ」
雀は武蔵の言葉に神妙に頷く。そして男の顔を覗き込み、傷の深い部分を避けて頭を撫でる。
神は不老と聞くが、この白銀の男の外見は己と同じ程の、まだ青年とも呼べない見た目をしている。
人と神は混じり合えない。関わってはいけないというのは、この国の人ならば物心ついた頃には既に親から教わっていることだろう。
だが雀の目の前にいるこの男を、雀は神だからと放っておきたくはなかった。
「…こんなあどけない顔の人も、そんな勢力争いに巻き込まれているのね」
「神は不老だ。容姿なんぞあてにならない。幼い容姿をしていても、高潔で冷徹であると聞く」
そうなんだろうか、と雀はぼう、と武蔵の言葉を聞く。神についてならばこの村ではきっと武蔵が一番詳しい。その武蔵が言うのならば、きっとそれは真実であるのだろう。だが、雀はそれに素直に頷けなかった。この白銀の男と言葉を交わしたわけでもないのに何故だろうか。自問しても、雀に答えは出せなかった。
顔を顰める雀を見遣った武蔵は、その手元にある物に首を傾げた。
「おい、雀。先程から、何か握っているようだがそれはなんだ」
「え…、あ、これ?」
雀が握りしめた手を開いて武蔵に見せたのは、透明な石だった。石、と一言で言っても、その石は形が整えられており、先が鋭くなり、物騒な雰囲気を出していた。
「ああ、これは、この人を助けた時に近くに落ちてて…。ただの石にしては綺麗だし、もしかしてこの人の物なのかなって、一応持ってきたの」
「そうか…」
武蔵もその言葉に納得したのか、それ以上言及することはなかった。
「うっ…」
あどけない顔を一変して曇らせた男に、容態が急変したかと雀と武蔵は身構えたが、震える瞼に、それが起床の合図であったことを知る。
薄っすらと開かれる目は、紅い目をしていた。
神族が一様に紅い目をしている事は、神族に精通していない雀であっても知識としてあった。血の様な真っ赤な毒々しい色をしている、と書物にはあったが、雀には血というよりは、ガラス玉を赤色に染めた様な、美しさを見た気がした。
そのガラス玉は暫く目だけで気怠げに右往左往し、次いでカッと刮目した。そして勢いよく立ち上がるその男に驚き、雀はズズ、と畳を尻で擦りながら腕の力で身体一つ分男から後退した。武蔵を見遣れば、立ち上がり男を見据えている。その警戒の強さは、得物こそ持ち合わせてはいないが、いざとなれば交戦する事も厭わない覚悟を覗かせた。
「っ、てめえらっ、此処は何処だ!俺に何、を…」
吠えるように雀達に向かって喚く男は、武蔵を見、ついで雀を目にし、停止した。
元より大きい目を更に見開く様は、何処か幼子を連想させるもので、この様な状況でなければ、雀は頭を撫でていたかもしれない。
それ程男の顔は驚愕と呆けで、間抜けさを演出していたのだ。
「つ、椿…?」
知らぬ名を呼ばれたが、しかし雀はそれをただ知らぬ名だと放る事が出来なかった。雀は雀だ。それは亡き父と母から名付けられて以来、変わる事はなく、今後もそうだろう。苗字は嫁げば変わるが道理でも、名前が変わるのはその限りではないだろう。
だが、それでも雀は、その椿という名の者を、知っている様な気がした。
その後、雀と白銀の髪を持つ男は、随分と長い付き合いとなるが、この時点で二人にその未来を知る術はない。