第13話 決戦の金曜日
好きなことを仕事にする。非常に心躍るフレーズですが、出版業界に関しては危ないフレーズかもしれません。過日の出版社S堂パワハラ訴訟の編集者の労働環境は異常なのか、考えさせられます。
どんな仕事も好不況の波があって、最悪、不況で会社が倒産することもあります。出版業は3600もの会社がしのぎを削る世界。それも、ほとんどが中小零細企業に属します。
この20年、業界が好況になったことはなく、業界に属する中堅どころまでが好況を経験したことがないという珍しい業態です。報われることなく淘汰だけが進む業界で、頑張り続けることは容易ではありません。
しかも、守ってくれるはずの会社は中小企業なので、セーフティネットも薄く、編集者は時給を越えた何かに希望を求めて、人脈を広げ、知識を広げ、フィールドを開拓している状態です。
頑張れば報われるのではなく、頑張らないと置いていかれる不安の中で仕事を続けられるのは、仕事が好きだからで、そうした人の好意を前提に成り立つ業界については、あり方を考え直さなければ、優秀で若い人材が入らなくなるでしょう。
さて、本日は3200字となりました。どうぞ宜しくお願いします。
第二編集部、四霧鵺征次編集長にとって、西木坂事務所が前門の虎とするなら、さしづめ後門の狼とはこの人なのかもしれない。
水曜日の朝10時前。
原稿の受渡しの件で二編に来たものの、この方はタダでは帰ってくれそうにない。
「それにしても、こないに直前になって作品差し替えやなんて、征次はん、エエ根性してはりますなあ」
ため息混じりに差し替え原稿を眺めながら、ジト目で征次編集長を見ているのは鵜野目涼子さんだ。
今回、俺の原稿が西木坂事務所に流れるキッカケを作った人でもある。
「直前って、まだ、校了まで2週間以上ありますよ」
「そやかて、先にサンラ新人賞モンおすえって言うて原稿渡した手前、この作品は何、言うて渡したらええんどっしゃろなあ。芸能事務所に、クレーム一つで作品が差し替えられるなんて思われとうもないし」
苦々しい顔で征次編集長は引き出しから一枚の依頼書を取り出して涼子さんに渡す。
そう言えばケモミミが、恋愛モノではない、中世異世界モノではない、と謂れのない中傷をミイナ様から受けている元凶とも言えるファックスだ。
「当社は、そのファックスの依頼を聞いていませんでしたので、10月刊行からアイドルに向きそうなものを渡したまでです」
「征次はん、このこと電話で云うたら、下ネタラノベじゃなければ大体のラノベは大丈夫って、そない言うてはったやないですか」
意地悪く笑う涼子さんを前に、征次編集長は頭を振って言う。
「こういう重要なものは、紙かメールで頂けませんか。兎に角、恋愛モノが良いと言われれば、その作品がイチオシです」
そう言われて、涼子さんは小さな溜息とともに原稿をカバンにしまい込む。
「まあ、二編の編集長のイチオシて言われてもパっとしいひんけど。しょうおへん、預からしてもらいますわ。あと『ケモミミ!』は別の芸能事務所からの引き合いに回しますさかい、段取りがついたら連絡さしてもらいますえ」
さらなる『ケモミミ!』転売を公言する涼子さんに、俺は心臓が飛び出しそうになる。
隣りにいる川絵さんも目が飛び出るほど驚いたようだが、征次編集長が右手を左右に振って鎮火する。
「その件ですが『ケモミミ!』は二編から出しますよ」
「なしてぇ? 『ケモミミ!』はうちに任してくれたほうが間違いなく売れるんどすえ」
ガタンッ。涼子さんの横柄な態度と高飛車な言葉に、川絵さんが立ち上がる。
川絵さんは言葉には出さないが、なにか腹に据えかねているようだ。
征次編集長は川絵さんに視線で行動を制すると、意を汲んだかのように涼子さんを説得にかかる。
「いや、今回の件で考えを改めましたよ。ゴーストの引受は企画段階からにしたほうが良いと思いましてね。完成原稿での一発勝負は書き直しも含めてリスクが高すぎますから」
編集長の正論に、溜飲が下がる思いだが、涼子さんは諦めていないようだ。
「そない言うても、スピードとノリが勝負の世界どすのに……」
「いや、涼子さん。ライターのほうも納得して受けないと良いものは出来ません。売り手よし、買い手よし、世間よし。そうでないと、ビジネスとして長続きはしませんよ」
涼子さんは、それでも何か言い返そうとしたように見えたが、征次編集長の毅然とした態度と、川絵さんの無言の抗議の前に撤退を決めたようだ。
「……二編の方針がそうなら、しょうおへんな。ほな、今日のところは失礼します」
嵐が去ったあとの二編で、俺は川絵さんに訊く。
「涼子さん、編集長相手の方針に納得したんでしょうかね。引き下がりましたよ」
「うちの母、執念深いから……今日のところは戦略的撤退と違う?」
不安を隠せない川絵さんは、そのあと編集長のデスクの近くで気ぜわしく議論していた。
時計の針が11時を過ぎた頃、編集長がポツリと呟く。
「天麩羅蕎麦かなあ」
なんだ、昼食の話かと聞き流していると次の鷺森さんの言葉に驚かされる。
「天地神明もありますよ」
鷺森さん、それは食べ物じゃないですよ。
なんだか、理解らずにいると、川絵さんが話の輪に加わる。
「蕎麦も良いんですけど、制作編集の立場からは天外魔境なんかもワクワクするんやないかと」
天外魔境なんて、食い気すらそそらない。
「天外魔境というより、天涯孤独のほうが合ってないか」
「編集長、それはイケズ過ぎるわ。あ、鷺森さん、ネット辞書で良い感じのヤツありました?」
ノーパソの画面に目を落としていた鷺森女史が検索結果を告げる。
「天で始まる名詞で一番長いのは『天璽国押開豊桜彦天皇』だけど」
川絵さんが声を出して笑いながら応じる。
「……そんなん、本人が覚えられる訳ないやん」
「難しいかもしれませんね」
和気藹々とした中でも、なんだか、川絵さんがひときわ嬉しそうなのは気のせいだろうか。
蚊帳の外に置かれていた俺だが、3人の6つの瞳でこちらを見つめられると、理解が及ぶ。
「ひょっとして、それ、俺の筆名ですか?」
「……バレちゃいましたね」
優しい鷺森さんが、一番に真相を告げてくれる。
そうか、うまく行ったら『ケモミミ!①』は『天ナントカ』という二編の筆名で刊行されることになる。
しかし、天麩羅蕎麦はないでしょう。天地神明はまだマシで、天外魔境に至っては、なんじゃそりゃレベルである。
何が良いのか脳内辞書を捲り始めたとき、征次編集長が言う。
「まあ、それもこれも先方の出方次第だ。運良く決まったら、あとで考えよう」
確かに、それはそうだ。俺も筆名で浮つきかけた気持ちを鎮める。
予定は未定、決定ではない。
「でも、突然『王室第三婦人が一妻多夫で炎上中』を出されるとアイドルの方も驚くでしょうね」
鷺森さんは何気なく言っただけだが、確かに『ケモミミ!』とは毛色が違い過ぎる。
「そう言えば、『王室第三婦人……』で書店ポップ発注してなかったっけ……あっ、書評依頼原稿の差し替えって、今から間に合うんかな」
川絵さんがちょっと怖い手違いを吐露する。
でも『オサイタ』が選ばれなければ、『ケモミミ!』がアイドルラノベ本になるので、審判が下るまでは両睨みにならざるをえない。
そして、その週の金曜日の朝10時ちょうどに、内線を受けた鷺森さんが征次編集長に告げる。
「西木坂事務所様、お二人、お見えになられたそうです。5階会議室です」
それに呼応して、征次編集長、川絵さん、小鮒さんと俺が席を立って、バタバタとエレベーター前に集合する。
小鮒さんが名刺入れを確認しているのを見て、俺は川絵さんの名刺破棄事件を思い出す。
そう言えば、今日の打ち合わせって俺の存在意義が極めて怪しいのだが、小鮒さんの作品が不採用となる可能性もあり、嬉しくはないが末席に加わる。
役員会議室の中に入ると、既にマンタ氏とミイナ様が態勢を整えて待っている。
「お待たせしました」
征次編集長の後ろに川絵さん、小鮒さん、俺の順で部屋に入る。
「こういう、古風な会議室もたまにはイイ感じですね、四霧鵺編集長。あと、新作も頂いてますよ。有難うございます」
マンタ氏は言葉とは裏腹に目が据わっていて少し怖い。
あと、ミイナ様の鋭い眼光は刺さるようで痛い。
「いえ、どうしても恋愛モノラノベが良いということでしたので急ぎ届けさせました。それで……」
「折角ですが、作品としては前のほうが良かったと思ってますよ。残念ですがね」
マンタ氏がドキリとするようなことを言う。マンタ氏、SF推しですか……俺は嬉しいが、素直に喜べない。
そして、土野湖さんの顔色から血の気が失せ、徐々に土色の度合いを増していった。