第5話 事変の収拾に向けて
2016年の電子書籍売上が1909億円と言われますが、2010年予想では3000億円以上の規模まで伸びると予想されていました。
目標に届かない理由として、プラットフォームの乱立(Kindle、kobo、Bookliveなど)が一つの原因とされます。電子書籍では、音楽プラットフォーム共通化の鍵となったDRM(デジタル著作権管理)フリー化の動きは鈍く、まだまだの状況です。加えて、iPhone、iPadの普及率が高い日本でiBookが電子書籍取扱で圧倒的に出遅れるという不幸な事態も目標未達に寄与していそうです。
さて、本日は3300字となりました。どうぞ宜しくお願いします。
そうして、俺、こと『◯ぶ』と、川絵さんが、例の地下一階にある喫茶タカノに落ち着いたのは六時前だった。
喫茶タカノは茶烏さんの一件で、メグさんと来て以来になる。
会社に打ち合わせスペースがあるので、紅茶女子御用達の喫茶タカノに来るのは特別だ。
とりあえず、案内された席でオススメのアッサムティーを注文し、荷物を整理し終えると、川絵さんは開口一番、話を持っていってしまった。
「ゴーストって、芸能とかスポーツ関係の口述筆記屋さんみたいなもんやと思ってたんやけど、ラノベにもゴースト需要があるなんてビックリしたわ。でも、アイドルに言われて、ラノベをライターが書き起こして何がアカンのよって、あんな風に正面切って言われたら、答えにくいわぁ」
そして、川絵さんは運ばれてきたアッサムティーの砂時計を眺めながら、不満げに言う。
「居直り強盗みたいでズルいなって思うねんけど、一言もまともに反論できへんなんて……ほんまに私ってまだまだやねんなぁ」
一気にまくし立てた割には、語尾に至って急に勢いを失った川絵さんは、いつにもなく複雑な表情をしていた。
その隙に、俺は、とりあえず聞きたかった一つ目の話をする。
「反論と言えば、さっきは涼子さんと何の話をしてたの?」
「さっきは……その、ラノベのゴーストライターって、まんまに許されるんかどうかって改めて聞いてみたくて、話してみただけで」
「でも、なんだか言い争ってるみたいだったような」
「いや、『ケモミミ!』の話とかはしてへんねんけど……え、ひょっとして編集長と最初から聴いてたん?」
俺は後ろめたい気持ちはないと言い聞かせながら、自己正当化を試みる。
「聴いてたというより、途中から聞こえてたというか。その、声がすこし大きかったんで」
「ぶたにん……その、話の、どの辺りからおったん?」
川絵さんは少し上ずった声で、じっと目を合わせながら訊いてくる。
「あの、『悪いのは西木坂事務所のアイドルや』のあたりからです」
「そ、そうなんや……早く言うてくれても良かったのに、朴念仁!」
川絵さんが次に新種の京野菜『ボク人参』の話をするのかと思ったら、顔をプイとナナメ横に向けながらティーカップに紅茶を注いで、話を本題へと移してきた。
「そういえば、ぶたにん、私に聞きたいことあるって言うてたけど」
そう言われて、俺も思い出す。『ケモミミ!』譲渡にまつわる嫌な思い出も一緒にだ。
「あの、その……聞きたいことなんですが、さっき、『やっぱり』納得してないって俺に言いましたよね」
俺がおずおずと切り出すと、川絵さんはいつもの川絵さんに戻ってくれる。
「そう言えば、そんなこと言ってたっけ。それは、やっぱり『ケモミミ!』を手放すことになったんを後悔してるんやろなと思って言うたんやけど、違う?」
「いや、違うくないです」
「そうやんなあ。なんて言うてもデビュー作やもんなあ。気安く人にあげましたって、有り得へんやんなあ」
「後悔もそうなんですけど、うまく行けば売れるかもと思ったりもしてたり……」俺は、危うく自ら助平心を語りそうになるのを自制して言葉を続ける。
「いやっ、じゃなくて、じつは、俺、さっき西木坂事務所に打ち合わせに連れて行かれて、それで、話がどんどん進んでいって、それにミイナ様……さん、には作品が暗いとかノートにいっぱい苦情を言われて、直せってことになって」
俺は次第に鬱々が鬱積して、話がうまくまとまらない。「とにかく、書き直したら『ケモミミ!』が『ケモミミ!』じゃなくなるんです。そんなことになるくらいなら『ケモミミ!』はそのまま俺が出したいと思って」
さて、ここまで、止めどなく聞いていた川絵さんが、ようやくツッコミを入れてくれる。
「ちょっと、なんで、アイドルがラノベ創作に噛み付いてくるんよ。商業文芸ナメたらアカンでって、しっかり言わな……その前に、ぶたにん。なんで自分からホイホイ打ち合わせに行ってるんよ。それに、ゴーストやめたいんなら、征次編集長と話し合うんが先やん」
「いゃ……編集長に言おうとしたら、逆に今から打ち合わせはどうかってイキナリ言わて……それにアイドルに良い感じの感想ももらえるとかで、強引に連れて行かれたんです」
「なんや、ぶたにんもアイドルに会えると思うて鼻の下伸ばして会いに行ったんや。ふぅん」
川絵さんが、ちょっとイケズな目で俺を責め立てる。
しかし、アイドルにナマで会えるとか褒められるとか言われて、断れる男子高校生がいるだろうか。
あれほどに酷く貶されていなければ、後悔していたか微妙な自分を、そっ閉じで封印する。
「いや、でもアイドルって言ってもマジ、オーラ怖くて。それに序章だけで『ケモミミ!』は面白くないから書き直しだって無茶なコト言い出して……」
「そんなん、ケチつけられたら、その場でスッパリ契約切ったらエエねん……って、エラそうに言うてる私もゴーストライターの件では周りに流されっぱなしやけど」
「あっそうか、嫌なら断っても良かったんですね」
俺の勇気ある一言は、川絵さんの度肝を抜いたようだ。
「あのさ、ぶたにんな、この話って二編から持ちこんでるんやから、悪いけど一方的にバッサリ断れるもんでもないと思うで」
え? 断れないとなると、俺、ミイナ様の福音書との対峙が待ったなしなんですが。
「まあ、条件が折り合わずに向こうから断ってきたら『ケモミミ!』を取り戻すチャンスやねんけど。とにかく、ここまで来てスケジュール的に序章からの書き直しは出来へんねやから、そのあたりの編集部の事情を早く向こうに伝えるだけは、しとかなアカンのんちゃうかな」
「そ、そうですね。こっちの都合を聞いてもらって、その上、断られたらラッキーですよね。分かりました。俺、編集長に早く次回の打ち合わせをお願いしてみます」
「うん、間違ってはないけど……まあ、善は急げやわ。今度は私も一緒に行って片づけたるから」
川絵さんはとびきりのキメ顔で、そう言って、俺の背中を押してくれる。
俺は、征次編集長にスマホで地鶏ヶ淵ミイナとのアポ取りの依頼をメールする。
もちろん、川絵さんも一緒に行くことも伝えている。
――――了解。
ソッコーで、そっけない返信が帰ってくる。
しかし、締切まであと19日だ。今から序章を触っている暇などない。
スマホを机に戻すと、川絵さんが俺に訊く。
「言うても、相手は高校生なんやろ。あんまり世間の事情知れへんのとちゃうかな?」
「いや、高校は中退してるみたいです。なんでも、体育選抜で通ったのに怪我してしまったようで」
「へぇ、アイドルやのに意外な挫折の過去やな。うちの高校にも体育推薦枠あるけど、怪我して学校やめなアカンほど厳しい制度じゃなかったで? まあ、居場所がなくなるのは辛いんやろうけど」
「なんでも、高校中退をきっかけに性格がちょー悪くなったみたいで、でも、西木坂事務所のマネージャーのマンタさんって人に強引に芸能界に誘われて、いまは何だか、うまくやってるって言ってました」
「へぇ、そっちの素質もあったんや。若くて可愛いって無敵やな」
「いや、性格が良ければ無敵なんだけど……」
そう言いながら俺の前頭葉が警告を発する。
「……そりゃ、高校生アイドルって言うのは反則級やけどな」
そのあとは緊張感は解け、俺と川絵さんは、ミイナ様のノートを読みながら、序章しか読まずに作品を否定するのはいかがなものかという話で、一頻り話し込んで店をあとにする。
このまま川絵さんとタッグを組んで、西木坂事務所に乗り込んでミイナ様の反論を封じて形勢逆転だ! さらに契約解消か、書き直し拒否か、少なくとも『ケモミミ!』はこのまま出版で行けるはず。
しかしこのとき、鼻息荒ぶる俺は、川絵さんが介入することで、火に油を注いでしまう結果になることなど露ほども気づいていなかった。