第1話 鵜野目川絵の憂鬱
お久しぶりになります。錦坂茶寮です。
昨年、2016年は、電子書籍サービスで気になる動きが多く見られました。
また、紙ベースの出版では雑誌売上が書籍を下回るなど異変が起きています。
総じて、変化を続ける出版業は多様化し着実に進歩していると言えるでしょう。
さて、リハビリ明けの今回は、鵜野目川絵のモノローグから、になります。
本日は3600文字、どうぞよろしくお願いいたします。
まだ、午後四時くらいなんやろな。私は、恨めしそうに日傘を握り直す。
どうしようもない暑さのなか、私は神田神保町の東の外れの雑居ビルの2階に辿り着いた。
私の母が代表を務める編プロ集団、カルチャーショックはそこに居を構えている。
なぜか常に節電中のような薄暗い社内では、鬱蒼とした本と書類のジャングルの中で編プロの面々が、所々で蠢いている。
私は自分の席に鞄を置き、背もたれに皺にならないようスーツの上着をかけて、ピギーバッグを机の脇に押し込む。
とにかく、ヒールにスーツ姿で荷物を引いて1キロばかり歩くと、めちゃくちゃ暑い。
疲れた上に、やるせない気持ちでいっぱいやし……
でも、さすがに、みんなに断りなく出版社を後にしたのはマズかったんかな。
――――でも、ほんまにしんどいわ……私、何してんねやろ。
ケモミミ本の部決会議。
京野菜のコンビニムック企画のボツ。
ラノベをアイドルに書かせたことにすることとか、
……スッキリしない事柄が頭の中を巡る。ずっと。
私は奥の資料室で周囲に視線がないことを確認すると、さっさと形ばかりのリボンタイを取ってブラウスのボタンを上から一つ外し、だらしなく奥の長椅子でごろりと横になる。
なんか、気分が落ち着くわ。このまま寝てしまいたい気分や。
部屋は資料室と称しているが、いつもは母、涼子が居城とする、編プロ、カルチャーショックの司令室だ。
パーティションと空調のバランスが悪く、空調が利き過ぎるため、母がいない間は人気がなく休むにはちょうどいい。
資料室の深閑とした空気と、長椅子の冷えた合成皮革のおかげで、少し頭に溜まった熱が冷めて、汗が引いていく。
そうするとまた、さっきまでの状況に流されるままの、ぶたにんのイラッとする対応と、それをよそに喜々として話を進める征次編集長、芸能プロに取引の渡りをつける母の姿が代るがわるフラッシュバックする。
――――ぶたにんって、ケモミミが売れたら、他はどうでもええんかな?
出会った頃は、ひたむきなケモミミ馬鹿やったぶたにんが、今や、ケモミミ本を売るのに焦って媚びてる感じさえする。
まあ、作者として、ちょっとでもええ作品にしようって言うのは理解るし、出すからには売れたほうがええっていうのも、当たり前っちゃ、当たり前やねんけど。
でも、作品売るために、アイドルに作品を売り渡すんは、絶対に違う気がするねん。
理由は?
なんとなく許されへんから……かな。
法令遵守?
そんな、格好ええもんとも違うなあ。
ぶたにんは、みんなに読んで欲しいって云うのも理解るけど、宗教ちゃうねん、商業出版やで。
内容を伝えたら後は何でもええってもんでもないやん。
ラノベでケモミミを徹底的に楽しむことを極めたら、こんな感じやねんで。
これがぶたにん流や、どやぁあってな。
そして、そんなケモミミを過激に拡大しただけの世界観で一つの作品を書き上げたぶたにんって、どんな人なんやろう。
ぶたにんの次の作品、早う読んでみたいなあ、楽しみやなあ……
そんな期待が膨らんで、書き手さんのファンって増えていくもんやと思うねん。
せやから、ケモミミ本をアイドルの名前で出しても、ぶたにんは得することなんかない。
断じて無いと思う。それって男女、関係ないんちゃうんかな?
それに、作品を貰ったアイドルかって、ぶたにんの世界観を気に入ったファンを抱え込んで、それでプラスになるんかな?
次の作品で全然違う作風になったら、ファンの子らかて戸惑うと思うわ。
ひょっとして、ファンに本を売るより、本に封入する握手券売るんが目的なんかなあ。
そこまで行ったら、もう、出版とか関係ないしなあ……芸能事務所の考えることは、よう理解れへんわ。
――――ぶたにんって、ケモミミの次回作とかちゃんと考えてるんかなあ。
まぁ、男子って、ときどき、めっちゃ真剣にアホやから……ホンマ理解れへんなあ。
そもそも、ケモミミ以外でも、あんなにアホな架空薀蓄大爆発の作品が書けるんかいな?
たぶん、次の展開とか、なんにも考えてへんかもやなあ。
こんど、それとなく聞いたろ。
そう思いを巡らしながら、長椅子の上でだらしなく身体をごろごろと転がしていると色んな考えが頭に浮かぶ。
こんなことになったんは、周りの環境のせいなんかな。
新人作家のお手本みたいな人が居れへんからなあ。
――――そうや、よう考えたら私の周りって変な大人ばっかりやわ。
そもそも、征次編集長もお母さんも一緒になって、ラノベのゴースト勧めるってダメダメやんか。
編集者以前に、人として道を誤ってるやん。
そうやわ。なんで、こんな簡単なこと、その場で言われへんかったんやろ。
まだ業界入って2年ちょっとやのに、私こそ周りに流され過ぎちゃうん?
いや、でも会議の席は福楼部長とかお偉いさんもおったし、部決め優先やったから、しゃあなかってん……たぶん。
そやけど、さすがにラノベのゴーストを新人に頼むのはアカンやろ。
しかも、ひとのデビュー作を取り上げるんは、犯罪やわ。
ぶたにんは、関係ない。
――――まずはゴースト阻止!
ついでに『ケモミミ!』を取り戻す。
これは、編集としての、鵜野目川絵の使命やわ。
思い立ったが吉日、吉時吉分。即断即決、躊躇なし。
それが私のモットーやしな。たちまち、スックと上体を起こす。
「よし、やったるでぇ」
怪気炎をあげた刹那、資料室の電気が灯り、四十路のオッサンの野太い声が響く。
「おい、川絵ぇ。暗い部屋で、お前、ナニ、やる気じゃぁ?」
入り口の方はよく見えないが、編プロの大先輩、瓶蝦蛄駿彦氏ことベーヤン氏の声で間違いない。
驚いて私は、少しはだけた胸元をむこうに向けて、ヨレたスカートを直して身なりを整える。
こういう時、とりあえず私は無性に強気に振る舞う。
「ベーヤンさん、セクハラにモラハラ、パワハラにソシャハラの数え役満ですやん。ホンマに訴えますよ」
「おいおい、役満和了で訴えるのは九蓮だけにしとけじゃ」
「チューレンって何よ……そんなんどうでもええわ、私、今はゴーストの件を止めなアカンねん」
「ゴーストって、川絵、芸能ネタとかやっとるんか? ひょっとして、政界ネタか?」
「い、いや、ラノベですけど……」
「ラノベって……太陽のサンラ文庫じゃろう。ラノベって景気良く出してっけど、ゴースト雇うほどじゃったんか?」
「いえ、景気良く出すと、倉庫に景気良く戻ってくるんで……」
「じゃろな。いい加減、数減らさんと……なら、ゴーストとか引き入れちゃ駄目じゃろう」
「そう、そうですよね、駄目ですよね。当然ですよね」
「ああ、じゃよ。それにラノベ書きたいって若い子、多いんじゃろ。なら、ライターさんは別に回したほうがギョーカイのためにもなる」
そうやん、ラノベの代原やったら書きたい人は腐るほどおるやん。ぶたにんのデビュー作を使わんでもええはずやん。
べーやんさんに「ですよね」と勢いよく相槌を打つと、私は早々に資料室を出る。
とにかく、お母さんの暴走を止めるか、征次編集長を諌めるか、どちらかでも成功すれば『ケモミミ!』のゴースト話はご破産や。
――――問題は、どうやって説得するか……やな。
そこやねん、私は肝心なことを分かってへん。
なんで、ラノベでゴーストはナシって言い切れるんやろか。
私、実のところ、この話のど真ん中の部分の理屈が分かってへんねん。
そりゃ、芸能出版にはゴースト起用はアリやけど……
今回も西木坂ナントカっていうグループのアイドルの芸能出版やからアリかもやけど……
なんで、よりによって『ケモミミ!』なんよ。
ぶたにんのデビュー作やって言うのに……
じゃあ、誰か別の、たとえば、木盧先生の作品やったらええん?
…………
なんか、私ってメチャクチャ阿呆やったんかな。
頭が全然回らんようになっってきたわ。
既に、ゴーストでラノベを売る話は、福楼営業部長と征次編集長でニギッてしもうてるやん。
決まった話をご破産にするにはそれなりの理由がいる。
勿論、その結果について責任者は責任を取らなアカン。
誰も責任を取らずに済む、それなりの理由になりそうなんは……
ええと……
やめや、やめや。いまは考えたら負け。
時間をかけたら、状況が固まってまうだけやん。
私は机に置いた鞄だけを手にすると、ルージュを引き直して口を真一文字に結ぶ。
そうして気合を入れ直すと、夕方の神保町の雑踏に漂い出た。
◇◇◇◇