第12話 わや(ダメ)になる企画、理解できない俺
春のドラマ『重版出来!』がまずまずの滑り出しのようです。
原作では違和感のない『重版出来!』ですが、『重版でき!』と読む向きもあるようです。
他にも、業界用語では『部決=発行部数決定』、『開く=平仮名に直す(漢字にするのは:閉じる)』、『!=あまだれ』、『後付け=後書、奥付け、巻末広告などの総称』などがあります。
本日は、3900字となりました。なお、次回投稿は5月6日0時の予定です。
どうぞ、よろしくお願いします。
川絵さんからの折り返しの電話があったのは、その日の夜11時を回ってからだった。
「ぶたにん、なんかあったぁ?」
やや、ぶっきら棒に聞こえたその声は、珍しく疲労によるもののようだった。
川絵さんも人の子だったのだ。当たり前の事実を、俺は再確認する。
「か、川絵さん、疲れてませんか?」
「疲れるに決まってるやんか、朝5時起きで用意して京都まで来て、言われた先だけで6件も回ってんから。しかも、肝心の廣瀬農場の廣瀬さんは会ってもくれへんし、ド田舎やし、それで、疲れてホテルに行こうと思ったら、駅からバスで三十分の山の中やで。しかも、壁は薄いし、外国人が馬鹿騒ぎしてるし……」
川絵さんの苦情は、大は新幹線で大鼾で寝倒す中年サラリーマンから、小はホテルの備品の歯ブラシが安っぽいことまでレポート用紙ぎっしり1枚程にはなりそうだ。
しかし、川絵さんはいつしか、巡航モードに戻して至急の電話の用件を訊いてきた。
「で、至急ってなんの用件なん」
「お、俺のケモミミ本が、営業部の美々透さんに6,000部に減らされそうで、そしたら赤字で、企画が取り下げになるんです」
「ふぅん、で?」
「でも、それでも小鮒さんが、黒字にしようとして企画原価の内訳を営業部に訊きに行ったら、美々透さんが意地悪して編集部で考えろって」
「ふんふん」
電話の向こうの川絵さんは、ちゃんと聞いてくれているのか、眠いのか疑わしい返事を返してくる。
そう思うと気持ちが焦って、接続詞や、係り結びの言葉がうまく選べなくなる。
「それで、サンラ編集部も同じように困ってるって訊きに行ったら、忙しくて十一月から対応で関係なくって、それでも、小鮒さんとイノイチ印刷に行ったら、美々透出禁事件で迷惑がかかって、つまり、見積書の絹田グラフィックは民事再生でプレハブで……」
川絵さんも徐々に溶けていく俺の話に追いつけなくなったのか、ツッコミを入れてくる。
「ふんふん、ぶたにん、落ち着きや。減部の話は理解ったけど、なんで6,000部になったら、企画取り下げなん? そんなんおかしいやん」
「小鮒さんが計算すると6,000部で計算すると24万ほど赤字で……でも、役員会では黒字になるから認められたって猫柳局長が言ってて……」
俺の拙い話を総合して、川絵さんは的確に対処法を伝授してくれる。
「それやったら、猫柳局長か福楼営業部長に詳しいこと、聞いたらええやん。あの人ら役員会出てるし知ってるはずやで」
「それが、猫柳局長は細かいことは憶えてなくて、営業部に問い合わせたら美々透さんが知らないの一点張りで、それに、手がかりの見本刷りも社長が持って行って無くなってるんです」
それから十分ほどだろうか、『ケモミミ!①』の重大危機ということで、俺は、今日あったことを川絵さんに順を追って説明する。
「ふーん、それで、西木坂46のラノベアイドルが行き詰ってる話は興味あるけど……私に至急っていうのは、営業の美々透さんにメール返さへんかったらええって、それだけやねんな?」
たった、それだけ……だったっけ? 俺は不安になる。
「……ですけど、それでも、このままだと、明日中には予定部数を征次編集長は言わなくちゃいけなくて、そうすると営業部の返事次第で『ケモミミ!①』も土野湖先生の『王室第三婦人が一妻多夫で炎上中』も取り下げになるんです」
多分、征次編集長だけでは、営業部には太刀打ち出来ないと、俺は感じていたのだろう。
でも、どうして川絵さんにそんなことを言ってしまったのだろうか?
しかし、スマホの奥から聞こえてくる声は、謎なまでにエネルギッシュな川絵さんの声だ。
「なるほどなあ。こっちの仕事も大変やけど、ぶたにんと土野湖先生の企画がポシャったら、私の製作編集の仕事、『昨日の旅』しか無くなるやんか……しゃあないなあ。明日、いっぺん、昼過ぎに帰るから、二編で待っとき。私も力になれるかも知れへんわ」
本当ですか、川絵神。いや、女神様。
俺は、スマホが切れた後も、スマホを下にも置かない扱いで充電する。
ノーパソで征次編集長に川絵さんのことをメールを送ると、程なく返事が来て、明日の昼の一時に緊急会議が決まった。
翌日、昼過ぎに二編に顔を出すと、編集ブースに鵜野目……涼子さんがいた。
予定では、昼の一時から征次編集長と小鮒さん、川絵さんと俺で対策会議の予定なのだが。
俺は、少々戸惑ったが、逃げる訳にはいかない。
「ぶたにんはん、相変わらず、冴えへん顔でおすなあ」
いったい、どうして……とも思うが、川絵さんとの京野菜のムック本の企画が通っているので、太陽系出版社に涼子さんが来ること自体は間違っていない。
分からないのは、なぜ、二編にいるのかだ。
「い、いえ。あの、鵜野目涼子さんは、二編に何か御用ですか?」
「あらあら、娘の職場なもんで、つい……それに、今は、ぶたにんはんの製作担当でっしゃろ。もう、本がちゃんと出来るんか、心配どしてな」
第三者から、本が出るか出ないかの瀬戸際なんて言われると、ごっそり俺のライフを削られる。
「それで、昨日の原価協力は、あんじょうよう行きはったんどすか?」
「それが、まだ、24万円の赤字で……」
「まあ、少しは良うなったんどすなあ。でも、赤字は難儀な話どす。ほな、このまま、ぶたにんはんは、諦めるんどすか」
そんな、諦められるわけ無いじゃん。だって、この本は俺だけの本じゃない。何より、編集会議で売れると太鼓判を押されたケモミミスト垂涎の書なのだ。
「あ、諦めませんよ。絶対に……」
「ぶたにんはんは、なんでこの本を出したいんどすか?」
涼子さん、なかなか編集者らしい質問をしてくれる。
そこに、俺は、ようやく、ケモミミへの思いの丈をぶちまける。
「それは、この本を待っている人がいるからですっ。全国二百万人のケモミミストの皆さんが待っているんです」
「全国二百万人のケモ……ミストって、なんどすか?」
「真にケモミミを愛好する同志です。まだ、ケモミミの真価を理解していない人も含まれていますが」
「ケモミミ好きで、その真価を理解してないって非道い話どすなあ」
「そうなんです。ですから、過去のケモミミストたちが積み上げた理念を、不屈の熱意で、ケモミミ啓蒙する嚆矢となることが、俺の使命なんです」
「ケモミミ啓蒙の嚆矢……どすか」
「はい、俺は、ケモミミストの、ケモミミストによる、ケモミミストのための本が、永遠にこの地上から消え去らないようにする、その理念を実現するんです」
そのとき、俺の心の中には、ペンシルベニア州ゲティスバーグの大地が広がっていた。
そこはケモミミ啓蒙活動に志半ばで倒れた、全世界の同志が埋葬されている聖地だ。
「くくっ、よう理解りまへんけど、ぶたにんはんのケモミミへの真っ直ぐな気持ちは伝わってきましたわ。あんさん、面白いどすな」
なんだか、笑われたような気がしたのは俺の気のせいとして、何やら入り口のほうがうるさい。
俺は、仕方なく見に行くと、ピギーバッグを引いた川絵さんがいた。
「あ、ぶたにん、ただいま」
ふらふらの川絵さんは、やつれながらも、いつものキメ顔は健在だ。
すっかり夏物の薄手のブラウスを着た川絵さんに、俺はドギマギしながら荷物を引き取る。
「ピギーバックで階段移動すんの疲れたわぁ。ぶたにん、ちょっと暑いから、これで扇いで」
俺はバッグから差し出された女物の扇子で、川絵さんに風を送る。
川絵さんは汗ばんだ首筋を差し出してたいそう気持ちよさ気である。
それを見ていたのか、奥のほうで涼子さんが咳払いをして言う。
「ほんま、暑うおすな」
その言葉にヴィヴィッドに反応したのが川絵さんだ。
素直に、驚きを隠さずに言う。
「あ、お、お母さん? いつから、おったん?」
「お母さんやおへん! 外では、キャップ、社長、涼子さんのどれかで、呼びや。はしたない」
川絵さんは俺から扇子をひったくると、顔を真赤にして俺の方を見る。
「ぶたにんも、教えてくれてもええやんか」
「い、いや、そんな隙も暇もなくて……」
川絵さんは体制を立て直し、二編に入って行くと涼子さんに俺を紹介してくれる。
「あの、こちらは、二編の編集作家の……」
「ぶたにんはん、どすな。ケモモミストの」
あの、涼子さん、ケモミミストと違って、『ケモモミスト』はケモナーをモミモミする変態さんを指す言葉なのですが……
俺が抗議の声をあげようとしたとき、川絵さんが別の抗議の声をあげる。
「せや、私、今朝、廣瀬さんに会ってきてん。そしたら、京野菜の通販企画も取材も涼子さんに、キッチリお断りしたはずやって言われたで。粘ってみたけど、けんもほろろに断られたわ」
「チッ、廣瀬のおっさん、変わってへんなあ」
「……お母さん、チッて何? まさか企画の時からダメやったん?」
「しゃあけど、この前の板前さんと語る京野菜の企画の時は、最後は折れてあんじょうよう行ったんおすえ。川絵も、せいだい、おきばりやっしゃ」
「そんなん云うても、板前は興味あったから会うたけど、通販だけは絶対アカン、勘弁してくれって言われたんやけど」
「さよか、廣瀬はんも、しぶちんどすなあ。ほうすっと、企画も、ぶっちゃけ、わややなぁ」
『しぶちん』がケチ、『わや』がダメと俺が知るのはもう少し先のことだ。
「えぇっ、そ、そんなん勝手やわ」
「まぁまぁ、サンらいふムックの編集長はんには、うちから、よう言うとくわ。ほなな」
呆然とする川絵さんを置いて、涼子さんは二編を後にする。
その前に、IDカードを俺に託していったのは何故だろうか。
「わ、私の企画が……」
何か、力を落として椅子に腰を落ち着けた川絵さんに俺は精一杯の言葉をかける。
「か、川絵さん……俺、ずっと言おうと思ってたんですけど」
「な……なになに?」
どうやら、川絵さんが残った気力を総動員して振り向いてくれる。
俺はそれまで言えなかった言葉を、満を持して掛ける。
「川絵さん、ムックの企画、通って、おめでとうございます。早く言わなくちゃと思ってたんですけど、お、俺、なんて言ったら良いかよく理解らなくって……遅くなったんですが三年間、頑張った甲斐がありましたよね」
川絵さんの立て直した顔が、音もなく崩れていく。
「ぶたにんのアホーッ……その企画、今、流れたわっ」
それだけ言うと川絵さんは、そのまま二編の机に突っ伏して、一時を過ぎるまで、ふたたび、起きてはくれなかった。