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神田神保町の高校生あちゃらか編集手帳  作者: 錦坂茶寮
PART5 交わらないラノベの損益分岐点
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第10話 こんなラノベでいいんですか?

日本産業標準分類では、印刷業をオフセット印刷とそれ以外の軽印刷に分けています。

OFFSETとは、印刷用語の「転写」つまり、原版から転写するという意味です。

従ってオフセット印刷は原版を作る(製版)かどうかで分けられることになります。

一般にオフセット印刷はアルミPS版を使う大量印刷に経済性を発揮する手法です。

逆に、軽印刷は原版がない分、小ロット印刷向きと言われます。


さて、本日は3900字となりました。どうぞ宜しくお願いします。

 電話では、いつでも来て良いということだったようで、すぐに、絹田グラフィックのプレハブ事務所のある北朝霞のほうへ車を向ける。


 プレハブ、正確に言うとプレファブリケーション。要するに工場でプラモデルのように材料をあらかじめカットして、現地で組み立てるだけの建物のことを指す。


 俺は、粗末な作りを勝手に想像していたが、着いてみると事務棟は予想以上に綺麗だったりする。



 到着して、事務所に踏み込むと、人懐っこい小太りのオジさんが出てくる。


「どうも、どうも、どうも、どうも、いやあよくお越しくださいました。さあ、どうぞ、どうぞ、どうぞ」


 どう見ても、そんなに奥行きがない事務所は畳五十枚の柔道場と似たような広さで、奥半分が工場スペースらしく、簡単な印刷機と資材棚が置かれている。


「よくお越しくださいました。わたくし、絹田……グラフィック印刷の田貫たぬきと云います」


 田貫社長が名刺を差し出すと、社会人のマナーのイロハ、名刺交換の儀が再び始まる。

 そつなく、ジャケットからアルミの名刺入れを取り出し、田貫社長に名刺を差し出す小鮒さんは、社会人然としている。


「太陽系出版社の編集作家の小鮒です」


 俺も、ポケットから名刺箱を取り出し、奥からどうにか名刺を取り出す。

 時間にして三〇秒、少し田貫社長を待たせてしまったようだ。


 今度はチャケチャニは封印だ。焦るな、頑張れ、俺。


「お、俺、いや、わたくし、太陽系出版社のぶた……武谷と申しますたっす」


 そろそろ、ぶた武谷も封印しないと、俺の沽券に関わることになりそうだ。

 名刺交換を終えると、事務机の椅子を寄せて、そこに座るように勧められる。


「ほう、お二人で太陽系出版社から、わざわざ、このようなむさ苦しいところに、今日はいったい、何のお見積りで?」


「書籍の見積もりです。A6の文庫サイズ、白黒標準二百七十二頁、口絵は三枚差し込みフルカラーPP仕上げ、口絵の内一枚はダブルで折込になります。この本体のみの印刷で六千部を予定しています。こちらが弊社のサンラ文庫の見本です」


 小鮒さんは、呪文のように説明を並べ、鞄から自著を取り出して見本として添える。

 田貫社長は奥付をじっくりと確認したあと、パラパラと本を眺めて言う。


「カバー無しのカラー口絵、本体白黒印刷の無線綴じで、六千部ですか……似たような話が以前あったような気が、まあ、気のせいか。ところで、小鮒さん、入稿ファイルは? あと、出版スケジュールはどうなっていますか?」


 田貫社長は前掛かりに聞いてくるが、小鮒さんが、具体的な商談にならないように、うまく話題をそらす。


「田貫社長、失礼ですが、オフセット印刷機はどこですか? あと、原紙や印刷資材は?」


 確かに俺の背丈を超えるようなオフセット印刷機は見当たらない。

 それに、大量の文庫本を刷る原紙ロールもインクもない。


「オフセットの印刷機は工場の建屋にあります。資材も昔の仲間に声を掛けて集めますよ。文庫六千部ぐらいなら、どうにかなるでしょう。はははは」


 その笑い声を聞いて、事務作業をしていた初老の男性が声を上げる。


「どうにもなりませんよ、社長」


雁木がんぎ君、どうしたんだ、いきなり」


「工場の電気、落とされたままじゃないですか。インクも油も差し押さえられて、どうやってオフセットの仕事なんて受けられるんですか。そもそも、工場のシャッターすら開けられないんですよ」


「電気なんて、事務棟の電気を流せばどうにかなるよ。そういうの得意なやつ知ってるから」


「そんなことしてると弁護士先生から、また怒られますよ。この前もミミズクとか言う男に乗せられて、痛い目にあったばかりでしょう」


 雁木氏が、唐突に放ったミミズクの言葉に思わず、反応してしまう。


「「美々透って?」」


「二、三ヶ月前に来た出版社の妙な男ですよ。いきなり、月に最低十万部の文庫の仕事を回すから格安でやってくれってね。こっちは倒産して工員もオペレーターもいないのに……それを社長は、調子よく見積書を切っちゃって、冷や汗をかきました」


「雁木君、なんといっても印刷は数。数を刷らなきゃダメだよ。ダダダッてオフセットの原紙が回らないとロマンってものがない……」


 確かに、巨大輪転機が唸りを上げて紙に活字を転写していく様は眺めていて飽きないものがあり、それなりに男子としてはワクワクではある。

 しかし、雁木さんは不機嫌そうに吐き捨てる。


「そのロマンで前の会社を潰したんでしょ。今度はオンデマンドで小ロットでやるって条件で民事再生も認可されたんですから、慎重にやってくださいよ。いいですか、美々透さんところも本気で話を持ってこなかったから、大事に至らずに済んだんですよ」


「雁木君は、融通が利かないよなあ。ロマンが分からないんだよなあ……済まないねぇ、みっともないところを見せてしまって」


 小鮒さんは、まったく願ったり叶ったりの展開に、満を持して尋ねる。


「いや、ひょっとして、その美々透って弊社の営業部の美々透じゃありませんか?」


「そんな、まさか……おうい、雁木君、見積書の控えを持ってきてよ」


 雁木さんは奥の棚から見積書の束を持ってきて、3人の目の前で慣れた手つきで捲ると、ピタリと手を止める。


 『太陽系出版社 御中(担当:営業部関東営業ブロック主幹美々透様)』としっかり書いてあって驚く。


「あはははは、小鮒さん、誰がなんと言おうとも、この見積書は時効だからね」


 田貫社長は早速、太陽系出版社宛の見積書控を破って捨てそうな勢いだったが、小鮒さんがそれを制して言う。


「社長。この件、一切、弊社から蒸し返すことはしません。ですから、お願いです……」


 小鮒さんは、美々透が出させた見積書のコピーを貰い、ついでに、絹田グラフィックのフルカラーの印刷見本も作らせる。


 見本と言っても、土野湖先生の本『ツチノコ劇場 ②』の挿絵をスキャニングして再出力させただけのものだ。



 そして、帰り際に雁木さんが駐車場まで、律儀に見送りに来てくれる。

 ヤンチャな社長に対して、冷静な番頭さんのような感じの人だ。


「いろいろあって、倒産を機に軽印刷で再出発を図ることになったんです。すみませんが、御社の大量印刷の要請には応えられません。そう云うことで、美々透さんにもよろしくお伝え下さい。」


「もちろんです」


 小鮒さんはそう言うと、見本のお礼を言って絹田グラフィックを後にする。



 車が首都高に乗ると、また、俺の魔の時間帯が始まる……そう思っていたが、帰りは小鮒さんのラノベの損益分岐点について熱く話してくれた。


 要約すると、企画原価を次のように分解して計算するらしい。


◯損益分岐点分析

想定売価640円(税別)六千部セット


◎固定費 合計_____1,074,000円

印刷外注 製版______240,000円

原稿外注 原画稿料____108,000円

編集外注 DTPデザイン__108,000円

編集原価 編集費_____138,000円

固定原価 本社費広宣費__480,000円


 まず、一部も印刷しなくてもかかる固定費を集計する。

 下記の場合は固定費1,074,000円が一部も売れない時の赤字となる。


 そこから、一冊売り上がる毎に入る『限界利益』を計算すると次の通り。

 3,840,000−3,013,200=826,800……6000部で割ると137.8円となる。


◎売価収入__640✕6000=3,840,000円

◎変動費 合計_____3,013,200円

印刷外注 本体_____1,260,000円

印刷外注 カバー_____150,000円

印刷外注 帯・付物____144,000円

原稿外注 原稿料_____307,200円

取次原価 取次原価____307,200円

販売原価 販売原価____844,800円


 結局、1,074,000円の固定費を1部売る毎に137.8円ずつ回収できるので……

 1,074,000÷137.8円=7793.90……となり、7794部売り上げると黒字になる。


 つまり、完売ロス無し前提で7794部が今のところ損益分岐点部数とのことだ。


◯損益分岐点部数……7794部


 ちなみに、太陽系出版社では、損益分岐点を大きく超える一握りのベストセラーがサンライトノベル文庫全体を支えているらしい。


 10万部のスマッシュヒットになると、8000部を超える92000部✕137.8円=12,677,600円が出版社の利益になる。

 この時、8%の印税率だと著者取り分が5,120,000円なので出版社の半分と、多少悲しくなるのは俺だけだろうか。





 神保町のビルに戻ると、もう夕方が近くなっている。

 昼間、どピーカンだった空に雲がかかり、夕立の気配も漂ってきている。


「小鮒君、ぶたにん君、お帰り」


 珍しく征次編集長が二編に鎮座している。

 日頃ほとんど、デスクにいないので違和感が著しい。

 小鮒さんが社用車のキーを鷺森さんに戻しながら、編集長に言う。


「久しぶりに朝霞のイノイチ印刷に行ってきました」


「へぇ、工場長は元気にしてたかい?」


 その言葉に、小鮒さんは掠れた声ながらも、割と大きな声で言う。


「元気どころか、営業の美々透主幹のせいで、大目玉を食らいましたよ」


 さすがに、驚いた征次編集長が訊き返す。


「どうして、営業部の美々透君が出てくるんだい?」


 小鮒さんが、イノイチ印刷での『美々透出禁事件(命名:俺)』を話す。

 そして、鞄から、おもむろに絹田グラフィックの見積書を取り出す。


「これが、美々透主幹が絹田に作らせた見積書です。工場の中は差し押さえられているらしくて、できないと言うことでしたが、かりにこれが可能だとすると、企画原価表が、ほぼ、トントンまで行きます」


 小鮒さんは、営業部の想定と言うことで、仮の企画損益を征次編集長に見せる。


◯企画損益(営業部見込)

原価合計____3,847,200円(✕ 実態と異なる)

売価合計____3,840,000円

企画損益_____▲7,200円(✕ 達成不能)


「なるほど、これでほぼトントンだな。でも、実態とは異なると……」


「絹田は軽印刷しかしない条件で民事再生を認可されてます。元の工場も資材も管財人の弁護士が押さえていて、とてもじゃないですが印刷の委託ができる先ではありません。それに、口絵の方ですが……」


 小鮒さんが絹田で貰ってきた色校見本を見せる。


「ほう、懐かしいな。ツチノコ劇場のイラストか」


「征次編集長、コレ、絵の感じが全体的に甘くないですか?」


 そう言われた征次編集長が見本印刷をじっくり見て唸るように言う。


「出力線数が少ないんだろう。フルカラー200線のイノイチ印刷の半分、100線で良い感じにボケたんだな」


「征次編集長、こんなラノベでいいんですか?」


 減部でラノベの仕上げまで悪くなるなんて、ありえない。

 俺なら、絶対、買わなくなるだろう。


 征次編集長は、うんと唸ると何やら考えを巡らせているようだ。

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