第9話 やってはいけない一線
ふつう、出版社の社員が通常業務で、印刷工場に行くことは滅多にないようです。
用紙見本など出版に必要な打ち合わせは、ほとんど出版社で行われます。
特に文庫本となると、印刷工場に行く必要はほとんどありません。
今回、工場長が編集部からの来社を訝ったのは、こうした背景からです。
なお、『抜き打ちテスト』と言うのは、規格通り印刷をしているかのチェックや特殊な資材の預け在庫の棚卸しをするようなケースを指します。
さて、本日は3400字となりました。どうぞ宜しくお願いします。
車が首都高を降りて下道を走り始めると、いよいよ、工場が近づいてくる。
高まる緊張感の中、小鮒さんが不意に訊く。
「そう言えば、名刺は持ってるかい? 僕は工場長には会ったことがあるけど、ぶたにん君は初めてだろう?」
「は、はい、持ってます」
サラリーマンの究極の武器、社畜の護摩札とも呼ばれる名刺である。
俺も入社して一週間ほどで貰ったのだが、両親に配った以外は箱に入れっぱなしだ。
『太陽系出版社 コミック学習局 第二編集部 編集作家 武谷新樹』
抜かずの宝刀の切れ味を試すチャンスと思いきや、否応なく緊張感が高まる。
まさか、名刺交換さえも、俺にとっては、正念場なのか。
それでも頑張れ、チャケチャニ君。元気よく、渡すだけで効果発動だ。
本番で噛まないよう、俺はあえて心の中で噛みまくる。
小鮒さんは、イノイチ印刷の看板横の来客者用駐車場にスルリと一度で車庫入れする。
太陽系出版社と書かれた車から降りて、工場の事務棟に向かう。
事務棟で、出迎えたイノイチ印刷の工場長の田螺川氏が大きな声で冗談交じりに小鮒さんに話しかける。
「まさか、本当にいらっしゃるとはねぇ。抜き打ちテストですか? 太陽さんも世知辛いねぇ」
小鮒さんが工場長の話を遮って、俺の紹介をしてくれる。
「いえ、今日は別件です。あ、こちら弊社の新人の……」
俺は、すかさず名刺を箱から取り出して、一礼し、相手の目を見ながら言う。
「チャケチャニ、いやタケタニといいます。よろしく、お願い申し上げたっす」
本番は練習のごとく、練習は本番のごとく行なえというが、見事にそのままだ。
さて、このチャケチャニ君はどこの野球部員だろうね。
だが、謎の挨拶にも工場長は寛容だ。
ちなみに、名刺入れがない場合、名刺はどこから出しても可と言うのもネットで検索済みだ。
「ちょっと待ってね、はい、イノイチ印刷の田螺川です。よろしくね」
田螺川さんもなかなかの強者で、名刺をメガネケースから出してきた。
名刺入れなんて無くても、生きていける。俺は、微妙な社会勉強の経験値を稼ぐ。
名刺交換の儀が終わると、応接セットに腰掛けた小鮒さんが遠慮がちに話を切り出す。
「で、本日は工場長に折り入ってお願いがあってですね……」
すると、工場長はそれまでの笑顔を潜めて、不機嫌な声で言う。
「原価協力ですか?」
その口調には、聞き飽きた、無理、侮蔑、諦観……ありとあらゆる否定的感情が込められている。
「早い話、そうです。御社には、製版、印刷、カバー、帯、折込、一括でお願いしてるんです。イノイチさんに協力して頂かないと他社へ話の持って行きようが無いんです。ですので、是非」
小鮒さんは、決して荒ぶらず、どちらかと言うと小声で朴訥に話す。
「小鮒さん、人件費も、光熱費も、インク代も、紙代も上がってるのは知ってますよね……」
「はい……」
「それを理解ってて言ってるのなら、原価協力なんて無理ということも理解って下さい」
おお、田螺川工場長、なかなか、理論肌だと俺は感心する。
確かに、値引きなんて無理じゃん。どっちかというと、値上げじゃん?
ただ、さすが原価で鳴らした小鮒さん、一撃では退かない。
「しかし……イノイチさんの本体単価、業界平均より一割弱、高いじゃないですか」
おお、そうなのか、イノイチって、他社より高いのか。
それなら原価、下げようよ、と俺は無節操にも今度は小鮒さんに加勢する。
「そりゃ、サンラさん仕様の口絵込みの単価だからですよ。口絵無しなら喜んで、その業界平均も検討しますよ」
ラノベの本体には、サンラの場合、三枚の両面カラーの口絵が入っていて、しかも、内一枚は三つ折パノラマサイズになっている。
「いえ、パノラマイラストはサンラの売りですので……」
ラノベといえばイラストが生命線である。
カバーは当然のことながら、口絵のカラー画、挿絵の白黒画のいずれもが、物語への没入感を高めてくれる重要な舞台装置だ。
それを削るなんて口が裂けても言えない。完全にこちらの負けだ。
すると、心なしか、小鮒さんが支離滅裂なことを口走っているような気がしてくる。
「工場長、どこでもいいんです。コストを削れませんか。帯なんてもう少し安くても……」
「帯はそもそも、二色刷りを折込製本費に含んでますよ。なんなら、特製栞と特典ショートストーリーを外してくれますか。あと、カラー目録も無しなら社長に話をしても構いませんが……」
「いや、そこは営業部とも詰めないと、僕の一存では……」
小鮒さんが何気なく口にした営業部の一言に、田螺川工場長の顔が不意にゆがむ。
「営業部だ? ひょっとして、あの美々透ってヤツとまた来るのか? 悪いんだが、アレをもう一度寄越すっていうなら、太陽さんとの取引は切れても良い。社長も同じ意見だ」
俺も、小鮒さんもビックリして声を上げる。
「「えっ、どうして?」」
美々透氏の名前が出るとともに、一気に話の雲行きが怪しくなる。
そもそも、イノイチ印刷は、カラーオフセット印刷技術に定評があった会社だ。
サンライトノベル文庫もカバー印刷を皮切りに委託を始め、それ以来イノイチ印刷以外でカバー印刷はしていない。
仮に本体を他社で印刷してもセット組みするのはイノイチ印刷でやって取次に納品している。
どちらかと言うと、イノイチ印刷の上得意先として下にも置かない扱いかと思ったが、取引を切るって、何の霹靂だろう。
デスクのほうに行った工場長が、茶封筒を取って戻ってくる。
「コレ、絹田グラフィックの見積書だよ」
「絹田グラフィック印刷? あ、この前、破綻した中堅どころの絹田高速印刷……」
「民事再生したらしいよ。二ヶ月ほど前かなぁ、おたくの美々透さんが、ウチでセットでやってる印刷モノを全部、絹田に移すって言い出してね。これまでのデータを全部引き上げるって言ったもんだから、社長が驚いて飛んできて、そうしたら、この見積書を見せて、引き止めるならウチに同額まで値引きしろって……もう、大騒ぎで」
なんだか、美々透氏が少し前に大変なことをやらかしたらしいことは伝わってくる。
小鮒さんが、工場長に続きを促す。
「その後、どうなったんですか」
「その日は、値下げを検討すると言って、お引き取り願ったよ。しかし、社長と私で絹田の工場に行ったら、工場はロックアウトされてて、隅のプレハブ棟で細々とオンデマンド印刷の機械を動かしてるだけだったんだ。ちょうど、事務棟から出てきた工員に聞いたら、もう、オフセットは稼働してないってね」
「でも、この見積書には148㎜✕100㎜文庫書籍・無線綴じ冊子印刷、六千部と書いてますよね。六千はさすがにオフセットじゃないとペイしないんじゃ……」
「詳しくは知らないけど、見積書も無理やり書かせたんでしょう。でも、それをもってきて、ウチに値引きをしろなんて、詐欺ですよ。でも、うちの社長と御社の営業部に乗り込んだら、やり手の営業部長に上手く丸め込まれてしまって……最後は、業界全体が危機感を持ってる証拠だとか言われてウヤムヤでしたがね」
最後、さすがにお上には逆らえないといった諦め顔で田螺川工場長は、やるせない心情を吐露する。
「それは知りませんでした。失礼しました」
「まあ、どこも必死だってことは理解ってるつもりだけど、やっちゃあいけない一線だけは弁えてもらわないと、信頼関係が根本から崩れてしまうから……」
それからは、小鮒さんは平謝りで、最後は原価協力の依頼どころではなかった。
なるほど、俺は、理屈がなければ原価協力の依頼も難しい現実を知る。
ここで鵜野目涼子さんがいたら、なんだか、スパっと原価を仕切ってくれそうな気もするが、さすがにそうはいかないだろう。
そのあと、社用車に戻ると、小鮒さんが不思議なことを言う。
「ぶたにん君、これから絹田の工場に行こうと思うんだけど」
「え、絹田に……ですか? さっきの美々透さんの悪行を証明してクビにして貰うんですか」
「いや、美々透個人はどうでもいい。もし、これで美々透の野郎が絹田を騙して見積もりを出させていたとなると、営業部が役員会議に出した資料の信頼性も怪しいんじゃないかな。六千部減部の役員会決議をひっくり返せるかもしれない」
なるほど、そういうものなのか。これで減部をひっくり返したら、小鮒さん、あなた、神だよ。
俺は、はやる気持ちを抑えて、絹田グラフィック印刷のサイトを調べると、小鮒さんが見積もりの件ということで早速、アポを取り付けた。