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神田神保町の高校生あちゃらか編集手帳  作者: 錦坂茶寮
PART5 交わらないラノベの損益分岐点
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第7話 鵜野目涼子とぶたにんと

 印刷業界の最大手凸版印刷の連結売上高は1兆5300億円と、紙の出版市場の売上に肉薄してきています。凸版印刷の雑誌、書籍の出版印刷、商業印刷、証券印刷の従来印刷事業での稼ぎは半分程度になる一方で、パッケージ印刷、建装材、エレクトロニクスなど新市場の開拓で売上を伸ばしています。

 出版業界各社も、従来事業を代替するようなコンテンツ事業を開拓していくことが期待されます。


 さて、本日は3200字となりました。どうぞ宜しくお願いします。

 俺たちが経理課から二編に戻ると、編集ブースの川絵さんがいつも使っているデスクに人が座っている。


 川絵さん? と一瞬、目を疑ったが、そのお母様こと、鵜野目うのめりょうさんである。

 アラフォー女子の鵜野目涼子さんは、早速、俺を見つけると、品のいい京都弁で話しかけてくる。


「なんや、元気が無さそうどすな」


 俺は何が起きているのか、全く理解らずに立ち尽くしてしまった。

 首に巻いてるIDカードは、昨日まで川絵さんが巻いていたものに酷似している。


「鵜野目さん、何か御用ですか?」


 俺に代わって小鮒こぶなさんが涼子さんに声をかける。


「そうどすな、川絵があんじょうよう仕事をしてるか見に来たんどすけど、ついでに、さっき、うた、そちらの殿方の様子も見にきたんどす」


 涼子さんは微笑みながら、俺の方を指差して言う。

 さて、俺は、身に覚えが無いのだが……


「ぶたにん君に? 彼が、何かしたんですか?」


「いいえ、朝にも増して、一層、辛気臭う見えるだけどすけど?」


 辛気臭いと言われると、何か言い返したくもなるものだが、相手がお母様となると話が別である。

 俺は固まったまま、言葉を詰まらせていると、小鮒さんがフォローしてくれる。


「それは、彼の出版の企画が倒れそうなんで参ってるだけですよ」


「ぶたにんはんの企画がねぇ。ほんま企画は生き物、下駄を履くまで分からんもんどすな」


 涼子さんの発する言葉には、いわゆる経験と含蓄があって、俺の百万言を軽く凌駕している。

 そして、それを察してか、小鮒さんも言葉を慎重に選んで言う。


「鵜野目さんなら、ご存知でしょう。例の減部をまたやるんですよ。それでなんです」


「減部、云うても企画が倒れるような減部は、しいひんでしょう」


「ぐぅ……それをやるってんですから参ってるんですよっ。もういいでしょう、失礼します」


 俺の頼みの綱である小鮒さんが、また、怒気を孕んだようにして執筆ブースの方に消える。




 涼子さんは、俺のほうをじぃっと見ながら試すように訊いてくる。

「ふぅん、減部ねぇ。で、ぶたにんはんは、どないしはるつもりなんどすか?」


 彼我の距離は数メートル。灼けつくような涼子さんの眼光は鋭く、射程は軽く水平線を超えそうだ。

 くどいようだが、俺は豚犯人ではなく、ぶたにんはんであって睨まれる覚えはない。


「ど、どないするつもり、とおっしゃいますと?」


「企画、諦めるんどすか?」


「い、いや、諦めません……本を出す準備はしてます。その、手違いは、きっとどうにかなるはずですから」


 そうだ、小鮒さんが編集長に連絡をとってくれれば、チョチョイのチョイで危機は乗り越えられるはず。




 そんな風に俺は考えていたが、次の瞬間、小鮒さんが執筆ブースからうなだれるようにして出てくる。


「ぐぅ……マズイぞ。営業部の原価資料は役員会限りで回収されたらしい。征次編集長も手を尽くしてくれているらしいが、入手は難しそうだ」


 なんて、間の悪い……どうやらチョチョイのチョイで、危機を乗り越えるのは難しいようだ。


「えっ、そんな、どうしたら」


「ほな、サンラ文庫編集部も呉越同舟どす。助けてくれるんやないどすか」


 涼子さんの言葉に何か気付いたのか、次の瞬間、小鮒さんは二編を飛び出して行った。


 俺も、とにかく、後を追うと、既に、小鮒さんは三階への階段を駆け上がっている。

 どうやら、三階のサンラ文庫編集部に向かっているようだ。


 俺が、おっとり刀で駆けつけた頃には、小鮒さんは三熊さんのデスクの横でうなだれていた。


「ぶたにん君、サンラ文庫編集部は鎌内先生の『とある』のアニメ3期対応と他にも幾つか営業合同企画進行中で大変なようだ。肝心の六千部対応は11月かららしい。よく分からんが、二編だけが貧乏くじを引かされたようだ」


 なんだか、とても不公平極まりない話を聞いてしまったが、あの蟹江氏ですら忙しそうにしているので、文句も言えずに引き下がる。


 二編に戻ってきた小鮒さんは、涼子さんに報告する。


「ぐぅ……サンラ文庫編集部のほうは、対応が一ヶ月遅れなので、対策はこちらに丸投げされましたよ」


「あらあら、難儀どすなあ。まあ、営業部がいけずしてはるんどしたら、営業部は出来たんでっしゃろ。あんたら編集も頑張ったら出来るのとちゃうんどすか?」


「でも、どうしたら」

 小鮒さんは、売価を640円に直した原価シートを眺めて言う。


 改めて見直すと、定価が上がった分、原稿料と流通コストが上昇して赤字は思ったように減ってくれてはいない。


◯企画原価

想定売価640円(税別)六千部セット

印刷外注 本体_____1,260,000

印刷外注 製版______240,000

印刷外注 カバー_____150,000

印刷外注 帯・付物____144,000

原稿外注 原稿料_____307,200(↑)

原稿外注 原画稿料____108,000

編集外注 DTPデザイン__108,000

編集原価 編集費_____138,000

固定原価 本社費広宣費__600,000

取次原価 取次原価____307,200(↑)

販売原価 販売原価____844,800(↑)


◯企画損益

原価合計____4,207,200円(↑)

売価合計____3,840,000円(↑)

企画損益____▲367,200円(↓)



 涼子さんは、小鮒さんにツカツカと歩み寄って、原価シートをピッと取り上げる。

 シートをざっと眺めると、編集ブースの机の上に置く。


「こんなしょうもない紙、お捨てよし。こないな数字、全部ご破産で、見直してもうたら宜しいんどす」


「ど、どうやって? そもそも、このシート自体、ノウハウの塊なんですよ」


「なにがノウハウですかいな。そんな役に立てへんもん、捨てよし。それより、ぶたにんはん、どうしても、出版したいんどしたら、ここの数字なら独断で削れますえ」


 涼子さんは、原稿料の三十万を指して微笑んでいる。

 確かに、原稿料ゼロなら黒字化に大きく近づくよね。


 涼子さん、凄いじゃんって、えっ、原稿料ゼロ……それは、いくらなんでも非道い。


「そ、それは嫌です。できません」


「ほな、他を削るしかおませんなあ。簡単なことどす。関係者全員、片っ端からお願いして回ったらどないだす」


 なるほど、たしかにそれしか無い。

 俺が独りごちていると、小鮒さんが言う。


「それじゃあ、昼からイノイチ印刷さんに話だけでも聞きに行こう。外注先で一番大きいトコだし」


「へぇ、イノイチさんなんて、えらいエエトコ使つこうて……」


「もう、初稿入稿してるんで、変更できないんですよ」


「ほな、もうセット発注済みどすなあ。イノイチさん、今から値引きなんて取りおてくれはりますかいな」


 蓋し正論である。しかし、良薬は口に苦く、正論は耳に痛い。


「ぐぅ……鵜野目さん、他人ひとの企画に入ってこないで下さいっ」


 小鮒さんは女性に詰められるのが苦手と言っていたようだが、本当に体質的にダメなようだ。

 俺も涼子さんに、どすどす詰められるのは勘弁願いたいのだが。


「はいはい、今日のところはこれで退散致します。ほな、鷺森はん、川絵のこと宜しゅう頼んます」


 涼子さんは俺に笑みを向けると、何か目的は達したかのように意気揚々と編集ブースから出て行く。

 同時に、俺は、小鮒さんの後について執筆ブースに戻る。


 執筆ブースに戻った小鮒さんは、スマホでイノイチ印刷にアポ入れをしている。


「工場長、昼からいつでも時間は空いてるらしい。着いたら声を掛けてくれってさ。工場までは車が便利だから、僕はこれから社用車が使えるか見てくるよ」


 小鮒さんは、そう告げると、総務の鷺森さんのところへ手続きに向かう。


 窓の外は恨めしいほどの快晴だ。手元のスマホに目を落とすと、川絵さんからは熊のスタンプ以降、何も送られては来ていない。


 企画が通って、京都の取材先回りに忙しい川絵さん。

 それに対して、没企画のピンチから抜け出せない俺。

 俺は、じりじりとした不安で胸がいっぱいになってきていた。

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