第5話 家族のある風景
出版と印刷業は日本産業分類上、’02年に分割され出版はサービス業とされました。
両者の接点となる印刷データは膨大で、印刷業者が最終版を管理する習わし?となっています。
そして、不思議なことにこの印刷最終データを印刷会社が管理していることから(そのほうが重版をかける場合に便利)、電子出版の取り組みにも印刷大手の大日本印刷、凸版印刷の両社が積極的にプレーヤーとして絡んでいます。
さて、本日は3400文字となりました。どうぞ、よろしくお願いします。
人は酷い精神的衝撃を受けると、その後の記憶が曖昧になったり、思い出せなくなるらしい。
俺も、軽いPTSDのようなものにでもなったのだろう。気が付くと、あっという間に朝の七時半である。
川絵さんは予告通り、さっそく京都に立つことになり、俺は手土産買い付けの手伝いにかこつけた見送りに来ている。
ラッシュアワーの前にも関わらず、東京駅の東海道新幹線ホームには人が多い。
川絵さんの乗る新幹線は八時前発で、京都駅には十時に着くらしい。
川絵さんは、大きめのピギーバッグを引きながら東京駅から新幹線に乗り込む。
今回は取材先への挨拶回りが主なようで、荷物の中身の半分は駅で買った東京銘菓が入っている。
「見送りなんかええのに、ぶたにんらしくないなあ。うちのお母さんも見送りに来るとか言うから全力で断ってんで」
川絵さんの言葉を聞きながら、俺は朝八時前の東京駅で、眠い目を擦りながら煩悶していた。
実は、昨日、川絵さんの編集デビューを祝っていないことを今更ながら後悔していたのだ。
「川絵さん、あ、あの……」
俺は、新幹線などと言う金属の塊を相手にしても、相性が悪いらしい。
絶妙のタイミングで駅のアナウンスが大きく響く。
(16番線から、のぞみ号新大阪行き、発車します。お見送りの方は列車から離れて、柵の外からお願いします)
業務アナウンスが終わると16両編成の新幹線の扉が、けたたましいベルの音とともに閉まる。
おい、俺の川絵さん励ましタイムを返せよ、と切歯扼腕するが、如何ともし難い。
当の川絵さんは発車まで笑顔で手を振っていたと思ったら、急に扉に駆け寄ってきて窓ガラスを叩き始めた。
なんだろう、やはり、俺に励まされたかったのだろうか。
いや、窓に蝿がいたのか、はたまた忘れ物か……
忘れ物ならスマホで言ってくれれば、後からどうにかするのだが。
俺は、スマホを手に握りながら川絵さんからの電話を待ってみるが、梨の礫だ。
気にはなるが、そのまま神保町の太陽系出版社に向かうことにした、その刹那だった。
「あなたが、ぶたにんはんどすか?」
声をかけてきたのは、後ろに立っていた見知らぬアラフォー女子だ。
言うまでもなくアバウト40歳のブルー系のビジネススーツのご婦人だ。
唐突に声を掛けられて、俺は一気に警戒する。
「い、いえ、違いますどす……です」
「いま、うちの娘と話ししとったように、見えよしたんどすけど。ぶたにんさんやないんでしたら、あんさん、一体、誰どすねん?」
なんだろう、察するに川絵さんのお母さん? なのだろうか。
しかも、はっきり、ぶたにんを認識しているような気もするのですが。
「わ、わた……俺、地球っ、ちがう……武谷どす。で、では、失礼しますっ」
おれは、急いで人混みに紛れて一気に新幹線ホームから、丸の内口の方に抜ける。
初夏の陽射しとは裏腹に、俺は、久しぶりに極度の緊張を感じて、少し震えていた。
あの「どすどす」喋り関西風は、おそらく川絵さんのお母様に違いない。
そして、娘を見送りに新幹線のホームに来て、俺を見つけて声をかけてきたのだろう。
しかも、第一声が、『ぶたにんはん』である……為念、豚犯人ではない。
既に、川絵さんの特殊関係人とバレているのではないだろうか。
少し走ったせいか、どっと汗が噴き出してきて、頬を伝う。
半蔵門線の大手町から地下鉄に乗ると、同じ車両でスマホでしゃべり続けているお茶目なアラフォー女子の声が耳に入る。
「あんたな、廣田はんは今回特別に協力して下さるんどすから、ちゃんとお礼なさいな。で、駅についたら必ず連絡してお邪魔するんおすえ……」
電車内での通話がいつ解禁されたのかは知らないが、俺は反射的に凍りつく。
いったい、いつ追いつかれたんだろう。
俺は神保町の駅に着くまで適当に視線を泳がせていたが、降りる段になってお母様がこちらに会釈をしている。
どうしたら良い? 全く考えがまとまらない。
俺は、ノータイムで会釈を返して、早々に駅の改札に急ぐ。
なにより、マーキングされたようで精神的に落ち着かない。
そのせいか、いつもより早足になっている俺に気づく。
結局、二編に着いたのは朝九時前、鷺森さんより早い出社は自己ベスト更新だ。
執筆ブースで、お母様と思しき人にあったことだけ、川絵さんにラインで送ってみる。
既読が出るやいなや、『正解』の板を持った熊のスタンプだけが送られてきたが、まったく嬉しくないドッキリだ。
とりあえず、腰を落ち着けた俺は、お母様紹介という儀式に畏怖と嫌悪を感じ始める。
百歩譲って、川絵さんのお母様に会うことは良しとしよう。
会ったところで、こちらからのお母様への要望事項は特に無い。
いや、逆に俺に要望されることのほうが多そうだ。
最悪、二度と娘に付きまとわないで、と言われかねない程度に嫌われ誤解される自信はある。
そうなったが最後、職業柄、業界に最強の敵を作ることになるなりかねない。
しかも、お父様まで敵に回ると、確実に仕事を干されることになるだろう。
おいおい、半端無く、失敗リスク高えよ。
目の前に、高卒、出版社バイト経由、樹海行きがチラつく。
その上、川絵さんを逆に俺の両親に紹介するという、お返しイベントまで進んでしまうと進退窮まる。
なんせ、川絵さんは、パッと見には可愛いし、コミュ力も高い。俺とは真逆だ。
さらに、大阪弁で何気に押しが強いところもある。まず、俺の両親はイチコロだろう。
それどころか、川絵さんに入れあげて、俺の存在を軽く忘れる程度までは予想の範囲内だ。
気付いたら、川絵さんに身ぐるみ剥がれて、逆らったら俺が多摩川に投げ込まれる可能性もある。
きっと、俺の両親も絆されて、気がつけば、川絵さんの手下その1、その2になって俺を橋の上に運ぶ手伝いをしていそうだ。
半分、夢うつつで考えていたので、暴走気味だが、俺の悪いほうの予感は、かなりの確率で当たる。
俺としては、川絵さんと喧嘩するたび、多摩川に沈むのは嫌だし、翌日東京湾に浮かぶのも避けたい。
俺の両親が川絵さんに心を売らないか確認をしてから、鵜野目涼子さんに挨拶することにしようと、密かに俺は心に誓う。
ところで、今日の午前中には、小鮒さんと企画書原価を黒字にするため、経理課の人と打ち合わせが入っている。
思い返してみると、昨日の営業部の美々透主幹との打ち合わせは実りの少ないものだった。
昨日の午後二時、呼びつけられた形で営業部のデスク横で立たされた小鮒さんが、こう切り出したのだ。
「うちの征次編集長から、サンラ文庫の部数減の話を聞きました。しかし、原価企画シートでは売価四十円上げでは、部数減の影響を吸収しきれません」
美々透主幹は鉄面皮なのか、愛想無しなのか、視線だけ動かして面倒くさそうに、小鮒さんに応じる。
木盧加川先生こと、メグさんには下にも置かない扱いだったのと比べると人気商売とは怖いものである。
「赤字原価なら部数を黒字になるまで増やせばいいでしょう。土野湖先生も長いんだから、社内の数字合わせは慣れてるでしょ」
「編集長からは六千部ベースで役員会で決まったと聞いてます。安易には増やせません」
表情が強張る小鮒さんを見て、意地悪そうに美々透主幹の目玉が動く。
「それなら征次編集長を説得すればいいでしょう。営業部には関係ないことですよ」
「ですが、サンラ文庫の部数減は福楼営業部長の提案だと聞いてます。僕らは末端なので知りませんが、営業部で六千部の原案を作っているはずだと思うんですが……」
もう、美々透主幹は身体を捩らせて小鮒さんを上目遣いに伺いながら、ギラギラした目で言う。
「はい、うちの営業部長の提案だと思いますが、私も末端なので役員会のことは詳しく知らないんですよ。おい、郭公、お前、今朝の役員会の文庫部数減の詳しい話、知ってるか?」
となりの島のデスクに座っている郭公氏と思しき男は、スマホで話しながら、美々透主幹に頭を振って知らないアピールをしている。
「土野湖先生、建前上、発行部数を提案するのは編集部の権限ですから、黒字になる部数で提案してくれればいいんですよ。それでうちの部長の福楼なり、灰江奈なりがゴーを出したら、末端の私たちが全力で売る。昔からそうしてきたじゃないですか。ねぇ……」
振り返った末端社員の美々透主幹は、小鮒さんを先生と呼んで持ち上げつつも、チクチクと弄りながら明らかに議論を上滑りさせようとしていた。
「理解りました。美々透主幹、貴重なお時間、有難うございました。失礼します」
小鮒さんも、ここで粘っても何も出ないと思ったのか、そう言うと、早足で同じフロアの二編に戻っていった。
神経質な小鮒さんの顔は震えていて、汗ばんでいて、そして何より、怒っているように見えた。