第3話 ラノベの原価計算って何ですか?
今年の2月にアマゾン社が中小出版社との直取引説明会を開いて話題となりました。
その際のアマゾンの決済条件は正味売価の66%でサイトは2ヶ月の確定現金払い。
他の取次では名目70%歩戻し2〜10%で書籍は6ヶ月後の返品控除後ベースの払い。
アマゾンは書店ではなく、強力な流通網を利して取次機能をも代替し始めています。
さて、本日は3500字となりました。どうぞ、よろしくお願いします。
征次編集長が長椅子にドッカと腰を下ろすと、心持ち小さな声で、ため息混じりに言う。
「出版は慈善事業じゃないんだって、営業部っていうところは、偉そうなことを言ってくれるよ。……少し前まで出版は文化だ、社会インフラだとか御託を並べていたくせになあ」
ヘルメット頭をガシガシ掻き上げながら、俺たちが腰掛けるのを見計らって、征次編集長が厳かに告げる。
「結論から言うと、今朝の役員会で正式に文庫初刷が下限六千まで減部が決まった」
「……」
土野湖先生こと、小鮒さんは、何かを言おうとして呑み込んだように見えた。
俺は、三熊さんと川絵さんから聞いていたので、取り立てて驚きはしなかったが、編集長と小鮒さんの緊張感が伝染りそうで怖い。
「役員会で営業部長は一律減部が前提じゃないと言ったらしいが、赤字削減の切り札らしいからなあ。とりあえず、決定事項だから逆らえない。小鮒君、ぶたにん君は、八月の部決迄に十月新刊企画書は六千部のパターンも用意して欲しい。特に原価計算は小鮒君の得意分野だから、営業部から文句の出ないように組んでくれ。それでだ……」
「……」
また、小鮒さんが何かを言いかけて呑み込む。
ひょっとして、小鮒さんが、もう一人の10月刊の主、メグさんを待っているのだとしたら勘違いも良いところだ。
メグさんの本は初刷を三万部、四万部に増やすことはあっても、減らすなんてありえない。
一方、征次編集長は部屋をぐるりと見渡して、確認するかのように言う。
「川絵は……いないのか?」
「か、川絵さんは、今、別の打ち合わせに出てます」
俺がそう言うと、心なしか征次編集長は愁眉を開いたように見えたのは気のせいだろうか。
そして、征次編集長は、言い訳がましい口ぶりで話し始める。
「なんだ、いないのか。まあ、今回は企画の話だから、川絵の領分でもないしなぁ……さて、ここからが本題だが、10月刊の制作が一段落したら完全に別企画で文庫書き下ろし用のプロットを準備して欲しい。テーマは任せるが、恋愛メインで、素直で分かり易いストーリーがほしいんだ。12月の編集会議までに企画書形式で、上がり次第、直接メールしてくれ。質問があったらいつでも聞こう」
ケモミミSFの次は恋愛モノか。しかし、どうして完全別企画で書くのだろうか。
まあ、ゴールデンウィークを境に、リア充属性を習得した俺には造作も無いことなのだが。
もちろん、俺としては、早くケモミミ続刊に手を付けたいところだが、続刊が出るのかどうかは第1巻の売れ行き次第なので、言われるがままする以外にしようがない。
「しかしなあ、刷れば売るからタマを寄越せと言っていた営業部が、売れないから刷るなとまで言うんだから驚きだよ。減らしていいならサンライトノベル文庫じゃなくて、他社のように別レーベルで、装丁を豪華にして、部数も、企画も、もっとターゲットを絞ったほうが良い本が出来るはずなんだよ」
そう言えば、政一編集長の上位別レーベルの立ち上げを図っているという、胡散臭い話もあったような気もする。
そのまま黙って聞いていると、征次編集長は両方とも部決では一万二千部で頑張ろう、と最後は良い感じにまとめて、編集ブースへ去っていった。
他方で、小鮒さんは議事メモをノーパソに打ち込んでいるのか、編集長が出て行った後もせわしなく手をカタカタと動かしている。
俺は、どうにも居心地が悪く、決まりも悪い川絵さんのいない二編から出ようと立ち上がると、力強く、ぐいっと手を引かれる。
「ぶたにん君、六千部では確実に赤字になる」
すぐに手は離してもらえたが、唐突なスキンシップに驚く俺に小鮒さんの言葉がすんなりとは入ってこない。
赤字? 本なんて売れなかったら赤字で、売れたら黒字になる……のは常識じゃないのだろうか。
「こ、小鮒さん、なんですか……」
俺の言葉より先にノーパソの画面を見ると表計算ソフトに数字がびっしりと詰め込んであって、チンプンカンプンだ。勘弁してもらいたい。
「ぶたにん君、印刷外注費だけで売価の5割を超えているんだ。六千部なんて土台、無理なんだよ」
「どういうことなんですか?」
「僕は三年前にも初刷減部の原価計算を確かめたけど、大体、印刷費4割、流通費3割、編集費2割、原稿料1割で収支トントンだったんだ」
小鮒さんは征次編集長が、サンラ文庫編集部で編集二課を立ち上げた時からいる最古参の編集作家で、征次編集長に編集者として鍛えられた精鋭でもある。
しかも、原価計算を得意分野にしているとのことだ。
理解らないことは素直に訊く。
俺が鮫貝氏以外に実践している薄っぺらい社会人経験に則って、ここは真っ向勝負するしか無い。
「……あの、原価計算って何ですか?」
質問が素朴過ぎて、却って面食らっているように見えるが、おそらく、三十ぐらいの年齢と三白眼のおかげで、俺としては落ち着いて聞いていられる。
「えぇと……簡単に言うと、本を出版して出版社がちゃんと儲かるかどうかって言う試算みたいなことをするんだ」
下世話なことに、他人様の儲けには敏感なぶたにんである。聞き逃すはずはなかった。
「え、出版社って、どれぐらい儲かるんですか?」
「今の一万二千部のロットなら、全部売り切って売上720万円のうち儲けは20万円ってところだね」
「えっ、残りの700万円はどこに行ったんですか?」
「だから、印刷費4割、流通費3割、編集費2割、原稿料に1割で……」
危険な小鮒さんの呪文を、どうにか解読しないと、俺はここで会話から置き去りにされてしまう。
しかし、なんで、つらつらと小難しい単語が出てくるんだろうね。
「えっ、印刷費って本を作るのにかかって、ええと、流通費って……?」
「いや、全部本を作って届けるのに必要な費用なんだけど……ぶたにん君って企画編集は誰に教わったの?」
しまった、ついに俺が粗製濫造のヘッポコ編集作家であることが漏れ伝わったようだ。
でも、小鮒さんだけには言っても良いのかな?
三白眼つながり恐るべしである。
「か、川絵さんと、鮫貝氏に……」
「鮫貝? ああ、去年の彼か……、そして、川絵さんって編プロの子でしょう。そうか、それでか。しかし、よくそれで企画書が書けたね」
すでに、俺の素性は丸裸だ。そして、編集作家としての評価は地に落ちたような気がする。
「……はい、意地と根性で書きました」
「まあ、文庫で部数固定なら、原価計算なんて考えずに済むからね」
さすが、小鮒さん。俺の言いたいことを全部代弁してくれる。
そう、俺が悪いわけじゃない。全部、時代が悪いんです。
俺はそう思いながら、小鮒さんへの御礼の言葉も欠かさない。
「はい、有り難うございます」
「ぶたにん君、僕は褒めてないからね。いいかい、印刷費は印刷外注費で発注先のイノイチ印刷に払う製版代、印刷製本費、カバーと帯、付き物の印刷折込費が入っている。この印刷費は出版社の努力で削れるものじゃない。ここで売価の5割を超えると、どうしても書店と取次に払う流通費3割以上が固定でかかってくるから、出版社の取り分は2割を下回るよね」
小鮒さん、マジメだ。まるで、茶烏さんの対極にいるような人だ。
重ねた苦労は言葉に出る、それを地で行くような小鮒さんに、俺はそれでも抗ってみる。
「それでも、2割あれば720万円で20万円の儲けよりは良いんじゃないですか?」
「いや、その2割からサンラ文庫では、原稿料として文章原稿に8%、画稿に2%程度、つまり1割は確実に消える」
原稿料は確実に俺の懐に入って欲しいが、どんどん、ライフが減っていく感は否めない。
「そ、それでも1割弱残っていますよね」
俺は最後の力を振り絞って言うが、もはや、ライフは風前の灯、スライムの一撃で草生す屍と化しそうだ。
「それだと、広告宣伝費と編集費が賄えない」
「それって幾らかかるんですか?」
「大体、1割強かな。だから、六千部だと50万円以上の赤字になるはずなんだ。しかも、これには取次への歩戻しとか細かい費用が入ってない。つまり、このベースで赤字だと100%出版なんて認められない」
(グワッシャーン)
俺の頭のなかで、原価計算とやらは、音を立てて崩壊した。
一般的にライフはゼロ以下は無いが、赤字は果てしなく下がある。
「でも、征次編集長は役員会で六千部は認められたって言ってましたよね」
俺がそう言うと、小鮒さんはすこし考えてから言う。
「編集長、なにか都合の悪いことを隠しているんじゃないかな。それか、伝え漏れがあるのか」
「ど、どうして、そんな」
「役員会で、営業部が提案している以上、赤字原価が前提になっているはずがないんだ……」
「で、でも、川絵さんは、以前、出版タイトルのほとんどは赤字って言う話をしていましたよ」
「結果として売れなくて赤字なのと、出版前から赤字が決まってるのは、意味が違うっていうのは分かるよね? 太陽系出版社も慈善事業でやっているんじゃないんだから、赤字と分かっているものを出版するはず無いよね? ねぇ、僕、間違ったこと、言ってるかな」
ひぇぇ、小鮒さんの話は正論過ぎて、反論の余地が無い。
そうすると、いったい、誰が何を意図して六千部なんてことを言い出したんだろう。
「小鮒さん、編集長は何を隠してるんですか?」
「隠してないことを祈りたいけどね。このまま企画書を作ると赤字になるのは分かってることだから、経費削減……原稿料の下げとか、そもそも、増えすぎたタイトル減らしの方便とか……」
原稿料の下げも嫌だし、そもそも、出版タイトル数を減らされるのは辛い。
小鮒さんの容赦無い呟きで、俺のライフは、もうゼロに近い。
「こ、小鮒さん……?」
俺は、もう二の句が継げないほど憔悴しきっていた。