第2話 土野湖先生こと小鮒さん登場
取次の再生ニューフェース大阪屋栗田が新年度、4月1日に無事発足したようです。
日販、トーハンの2強ですら将来を見通しにくくなっている中、注目の船出です。
一方、年度を越さずに太洋社が書店の帳合変更の割を食って会社清算に向かう模様。
紙の書籍市場縮小の着地点が見えないなか、中小取次の苦悶が続きます。
さて、本日は3500字となりました。どうぞ宜しくお願いします。
神保町で大衆割烹を気取る定食屋「なにわ」は十時過ぎまで開いていて、地下鉄の駅から近い編集者御用達の定食屋兼居酒屋だ。
いきなり二人で入るのは危険だが、帰る道すがら川絵さんが先に中に入って、関係者が居ないことが確認できたあとに本格的に腰を落ち着ける。
女将に、大きな水槽の隣の席に案内され、めいめいに定食を注文する。
「お飲み物の注文は?」
手を左右に振って、女将の誘いを断る川絵さんからは、これから家で仕事するオーラが伝わってくる。
そう言えば、例の映画を見た日から、川絵さんと夜食を食べる機会は増えたような気がする。
「それで、筆名、決めたん?」
「いえ、まだ、全然……」
そうだよ、それをどうにかしないと、筆名が地球特捜隊とかになりそうだ。
川絵さんなら、俺を地球病から救ってくれそうな気がしたが、案外、そうでもないらしい。
「ふーん、ところで帯の推薦文はメグさんなんか、どうやろ」
「え……全然、嬉しいんだけど」
メグさんが筆を執って、木盧加川先生になると、妙な擬音が言語化されることはない。
おそらく、大いにケモミミ押しの推薦文を書いてくれるに違いない。
それより何より、帯に、あの『昨日の旅』の木盧加川先生も大絶賛と大書されるに違いない。
「あと、明日の征次編集長の打ち合わせ、十一時やけど大丈夫?」
「はい、全然」
ここまでのところ、まったくリア充臭のしない、乾いた編集と作家のドライな会話が流れていく。
これが、生まれる以前に自然消滅するカップルの会話の流れというものなのだろうか。
「でさ、明日、その時間、私、別のトコで打ち合わせやねんけど、大丈夫やんな……土野湖大門先生、小鮒鉄郎さんも、一緒やから」
なんだろう、この独り立ちを暗に促す展開は。
次の回答次第で、ルート分岐が起きるとかは避けたい。
俺はルート分岐を先送りするべく、話を微妙に逸らす。
「川絵さんの打ち合わせって、今進行中のムックの関係……とか?」
「……ごめん、違うねん」
川絵さん、なんで謝るんだろう。
ひょっとして、もう分岐は始まっていたとか?
ちょっと、さっきのセーブポイントに戻りたいんですけど。
……リセットボタンお願いしますよ、ねぇ、ねぇねぇ。
焦る俺をおいて、川絵さんの懺悔のような告解が始まる。
「実はな……何から言うたらええんかな……」
こんなに口はぼったい川絵さんを俺は見たことがない。何かが変だ。
そう思うと、別れ際ぐらいは潔く……などと嫌なフレーズが頭を過る。
やむを得ず、俺は男らしくあるために、川絵さんを鼓舞するように言う。
「川絵さん、俺、川絵さんの言うとおりにするんで、なんでも言って下さい」
川絵さんが、キョトンとしている。
いつも通り、俺は何かやらかしたようだが、川絵さんの話は転がり始める。
「ほんまに? 実は、うちのお母さんやねんけどさ、最近、私の帰りが遅いから、相手できへんかって拗ねてしもてん。しかも、付き合ってるヒトでもおるんかとか変なこと言い出すから、ちょっと喧嘩してもうてて……それで、手打ちっちゅう訳や無いけど、急にさ、今度一緒にムックの企画をせえへんかって言うことになって、それの打ち合わせやねん」
川絵さん、お母さんのいうことは全然、変なことではないのでは?
その付き合ってる人候補が言うんだから間違いはない。そして、俺も素直に心に誓う。
「俺が、お母さんから川絵さんを取ったから……お、お母さんには、俺から謝ります」
「えっ、ちょっとまって。そんなん……まだ……お母さんには……その、ぶたにんの話はしてへんねん」
恥ずかしそうに言い繕う川絵さんに、胸がキュンと来るものがないでもない。
しかし、どうして、まだ母親に俺の情報解禁がなされていないのだろう。
「とりま、今のうちから色々言われるんも嫌やんか」
なるほど、母一人娘一人の環境で過ごしているのだから、娘のことを思いやる母の気持ちは理解らなくもない。
しかも、愛娘の相手は、稀代のケモミミ馬鹿一代だ。
せめて、著書が上梓されてからのほうが印象もマシかも知れない。
そう思っていると注文の品が運ばれてくる。
「焼野菜定食と、ハンバーグ定食、お待ちどうさまです」
女将が手際よく定食膳を並べて、伝票を置くと、川絵さんが大きな目を真ん丸に見開いて言う。
「もし、企画が通ったらの話やねんけど、さっそく、今週から忙しくなんねん……」
やばい、仕事が忙しくなって疎遠になるのは自然消滅の前駆症状だ。
俺は、冷静さを取り繕いながら、川絵さんに訊く。
「一体、それって、何の企画なの?」
「『皮は栄養! まるごと京の秋野菜おばんざい』って、さっき編集ブースでタイトルが、ババババンってひらめいてん……」
かつての番場蛮でも、そんな不穏なひらめき擬音は立てなかっただろう。
しかし、今、川絵さんは、なんて言ったんだ? 川絵用! ……何?
「川絵用? まるごと今日の焼野菜バンザイって……そんなに今日は、焼野菜定食が食べたかったんですか」
「いや、京の秋野菜の……おばんざい。グルメレシピ本やねんけど」
川絵さんは出鼻を挫かれたように憮然としながらも、箸袋にペンで書名を走り書きをして寄越す。
「最近、コンビニ限定ムックって伸びてて、基本、レシピ本やねんけど京野菜の契約農家の小口通販企画と栄養学の切り口も入ってて、結構いい感じやと思うねん」
「その企画、通りそうなんですか?」
「いつも通りやで! 感触は完っ璧やねん……それでいつもボツやねんけどな。ただ、制作スケジュールはタイトやから、万が一通ったら、メチャクチャ大変になるわ」
なんということだ。しばらく会えず、仕事は多忙、更に遠距離恋愛……
もはや、自然消滅の予感しかしない。
いやだ、行かないでくれ! 俺のために。
臆面もなく、そう言えるのは、この世で鮫貝氏か、茶烏氏ぐらいなものだろう。
「まあ、大丈夫やって。私の企画三十連敗中やし……あ、お母さんの名義の企画って勝率高いねんで。でも、編著者:鵜野目涼子、発行人:四霧鵺政孝とか書いてある本って、複雑やわあ」
俺がすがれるのは、川絵さんの無傷の連敗記録だけだ。
じっと、川絵さんを見てると、なぜか、慰めの言葉をかけられる。
「万が一企画が通っても、今の時代、スマホもラインも使えんねんから」
そうか、逆転の発想だ。川絵さんの仕事は京都でしか出来ないのに対し、俺は川絵さんがいないと仕事が出来ない。
ならば、俺が京都に行くのが圧倒的に正しいに違いない。
「理解りました。俺も京都に行って……」
「それはええから、ぶたにんはちゃんと高校に行って、ケモミミ本の仕上げをしといてや……」
何気に川絵さんのカウンターが早い。
最近、俺の思考の先を読まれているような気がする。
「……そやないと、私も編集三年目やし、いい加減、企画通したいわ。ぶたにんも、ちゃんと文庫の企画書通したんやからなあ」
そう言って焼野菜にパクつく川絵さんを見ていると、自然崩壊の足音など彼女にはまるで聞こえていないかのようだ。
本の企画なんて宝くじに当たるようなものと川絵さんはいつも言っているし、俺は少し安心する。
次の朝、十時半前にブースに行くと編集ブースに見慣れない、いかにも不健康そうな、浅黒い肌に紫がかった唇の痩せ型の男性が座っていた。
髪は短髪で、不景気そうな顔には無精髭が伸びている。
ひょっとして、古参の土野湖大門先生こと、小鮒さんだろうか。編集ブースには他に誰もおらず、川絵さんも今日はこちらに来てはいない。
俺は、周囲に誰もいないのを確認すると、意を決して男の前に行って挨拶をする。
「お、おはようございま……」
その刹那、後ろの二編のドアが開く。
そして征次編集長の大きな声が、俺の自己紹介を跡形もなく押し流してしまう。
「おはよう、ぶたにん君。それと、小鮒君もおはよう。もし良かったら、先に打ち合わせを始めようか」
かすれたような声で、小鮒さんが言う。
「おはよう……ぶたにん君」
征次編集長の言葉が耳に入ったのか、小鮒さんにも、ぶたにんの輪が広がっていく。
しかし、小鮒さんは、少し三白眼気味なところがあって、俺は妙に好感を持ってしまう。
なぜか、もう、ぶたにんと呼んでくれて良し、と思う程度にだ。
一方で、軽やかな口ぶりとは裏腹に、征次編集長の顔色が冴えないのは気がかりだ。
俺と、小鮒さんは、しばらくその場で編集長が用意するのを待って、編集ブースから執筆ブースへと歩を進めた。