第1話 筆名秘話
4月の年度替わりにライトノベル最大手の電撃文庫の編集長が交代しました。並みいる豪華執筆陣を担当し、ヒット作を連発、自らも著書を出すなど精力的な方です。
今後は作家の代理人として電撃文庫をはじめとするメディアとの橋渡し役になるとか。書籍を一つのメディアとして相対化し、編集者、作家の新しいメディアアプローチが見られると出版界に大きな一石を投じる動きになりそうです。
さて、3月は副業でバタつきましたが、本日より再開、第一話は3300字です。
どうぞ、宜しくお願いします。
六月に入って、『水な月』よろしく、梅雨の鬱々しい季節が神保町にも覆いかぶさってきた。
ちなみに、水無月と漢字を当てたのは『神な月』と同じくミスリードで、提唱者も汗顔の至りと言ったところだろう。
例の一件以来、川絵さんとの距離を詰めたつもりの俺だったが、あれ以来、急に忙しくなった川絵さんの編集作業に付き合わされるだけで、ラブラブのラの字も無い。
世上のリア充共を雁首揃えて爆破処分して欲しい……小人閑居して不善を為すと言うが、無聊を囲ったぶたにん思考もまた、碌な成果は生み出さない。
そして今日も、通勤途上の雨上がりのアスファルトの蒸す匂いには、うだるような夏の暑さが見え隠れしている。
このような時期に、出社して編集部で校正初稿に目を通している俺を最大級の賛辞で賞賛したくなるような、そんな日の夕方六時過ぎだった。
普段は編集ブースでキーボードを叩いている川絵さんが、執筆ブースに居る俺に、不意に訊いてきた。
「なあ、ぶたにんの筆名は、企画書通りでええの?」
「それは……」
俺も戸惑う。二編では『馬丘雲』の俺の筆名は使えない、編集部で二編用の筆名をくれるからと、当の川絵さんから言われていたからだ。
「それは、編集長に訊かな判れへんわなあ。さすがに、初稿まで来て、ぶたにん(仮)はマズかったわ」
川絵さんは独りごちるように呟いて、隣の編集ブースに歩いて行く。
俺は初稿の扉を見て、絶句する。
『けもみみ!① 著者:ぶたにん(仮)』
半年前の俺だったら、出版社を訴えていたかもしれない。
その程度に軽い黒歴史を背負った俺の中学時代のニックネームの『ぶたにん』である。
しかし、この数ヶ月、川絵さんに呼び慣らされるうちに不思議と拒絶反応は無くなっていたが、改めて大書されると違和感を禁じ得ない。
果たして、戻ってきた川絵さんが俺に告げる。
「ぶたにん、征次編集長が筆名のアイディアが欲しいって。何個か考えたら、近いうちにメールしてって言うてはるわ」
なんだ、自分で決めていいなら、早く言って欲しいもんだ。
俺は、次の瞬間から筆名を考え始める。
そもそも、本名から派生した『豚谷』が『馬丘』の元になっているのだ。次の展開はこれしかない。
『鳥山』だ。下の名前は明るいほうが良いので、思い切ってアキラとかはどうだろう。
そんなことを考えていると、川絵さんが俺のほうを心配そうに伺っている。
「ぶたにん、念の為に言うとくけど、ネーミングにはルールっちゅうもんがあんねんで。二編の作家さん、見たら理解るやろ?」
ここにきて、俺の頭のなかを二編の豪華作家陣が通り過ぎる。
火浦 爽。
水戸 三号。
木盧 加川。
金崎 嶺時。
土野湖 大門。
そして、今はサポートに回った寺嶋 ミロ。
これらの作家陣のネーミングルールは……俺の直感では、五行か、曜日か……だが、いずれにせよ、寺嶋ミロがルールを破綻させている。
鮫貝のヤツ、どこまで俺を苦しめれば気が済むのだろうか。
「寺嶋ミロって、ルールから外れてますよね」
「ん、特殊やけど、ルール通りやで」
五行に寺は出てこないし、土曜日の次は寺曜日ではない。
そもそも五行だったら、六人目で繰り返しになるから五行説は間違いだろう。
そして、曜日説から行くと、日と月が余る。
組み合わせてできる文字は……おれは、紅潮した顔で川絵さんに言う。
「日と月で、明ですね。アキラ鳥山っ」
不正競争防止法と景表法に軽く抵触しそうな筆名に、川絵さんはなぜか笑いを堪えている様子だ。
「あははは、どっから出てくんのよ。そのジャンプ流」
「曜日並びじゃないんですか?」
「あ、そっちに行ったんや。それやったら、寺嶋ミロが変やん。二編の筆名は、社名の太陽系出版社にちなんで、太陽系の惑星の名前から付けてんねん」
なるほど、それでも寺嶋を除いて、説明がつかないことはない。
「寺嶋ミロは、鮫貝君がどうしても『地球』は嫌やって、ゴネてな、ラテン語のテラを持ちだしてん。まあ、最後は鮫島君の屁理屈が、編集長のエゴに勝ったみたいな感じやったけど、凄絶な争いやったな」
俺もできれば『地球ミロ』のような筆名は避けたいものだ。
なんだよ、初めて鮫貝と見解の一致を見た気がする。
「そうすると、水、金、地、火、木、土まで来ているんですよね。そうすると次は『天』で考えれば……」
「いや、征次編集長は寺嶋ミロが抜けたから、今度こそ地球で考えてやって」
あの、一気に考える余地が無くなった気がしたのですが気のせいでしょうか。
そして、潜むように嬉しそうな笑みを湛えながら、川絵さんが止めの一撃を加えてくる。
「去年の征次編集長のお勧めは『地球塵』やったわ。たしか、SFの大家が昔に出した同人誌が、そんな名前やねんて」
なんだか、間抜けな筆名が付きそうな嫌な予感がつきまとうが、これを跳ね返すには、地球塵よりもインパクトのある筆名を提案する必要がありそうだ。
地球儀、地球外生命体、地球温暖化……なんだか、筆名で使いたくない候補しか頭には浮かばない。
「地球以外はダメなんですか?」
「えっ、絶対ダメやないんやろうけど、あ、地球塵は嫌なんや……」
「地球儀よりマシですけど……」
「あっ、ええやんか。地球儀もええんちゃう。一秒で七周半とか、筆回り早そうな感じやん……まあ、気に入ったやつを片っ端からメールしたらええわ」
いや、それ回るのは光だし……もう、滅んでもいいんじゃないか。地球。
川絵さんは、まるで他人事のようにそう言うと、忙しそうに編集ブースへと去っていった。
あの日以降、川絵さんはサンラ文庫の校正作業と編プロの仕事が重なって、いつも電話か、メールか、付箋剥がしかの何かをしていた。
俺は編集部に来て、やたら『付箋』という文房具が活躍しているのを見ている。
文房具というと社会に出ると、筆記具以外は余り使わなくなってしまうのではと思っていたのだが、付箋は違うようだ。
とりわけ、出版の校正作業の段階では、残っている仕事量を量るための道具として活用されていたりする。
手元にある『ケモミミ!①』の初稿には見た限りで五十枚を下らない付箋が残っている。
俺が送った原稿を川絵さんが校正ソフトで手直しして、専門の業者に送ると、朱入れされ、このような初稿と言う形になるようだ。
初稿段階から、文書原稿は印刷業者の管理のもとに移され、編集から校正指示をしないかぎり、明らかな誤記でも出版製本されてしまうから恐ろしい。
サンラ文庫では編集部で再校まで整理して、最後にセリフ内の誤記や、語感的におかしな表記となってしまっているものだけを作家に戻すのが決まりとなっている。
しかし、なぜか『ケモミミ!①』は初稿から原作者の俺が整理しているかというと、結論から言うと川絵さんが忙しいからに他ならない。
どのくらい忙しいか、川絵さんに聞いたことがあるが、次の一言に要約された。
「寝る時間が惜しいぐらいかなぁ。本出る前は、いっつも、こうやねん」
川絵さんが業界にいる限り、本は出続けるので急に忙しくなることは避けられないようだ。
川絵さんの仕事を下請けしながらも、メールで飛んで来る川絵さんの依頼は多岐にわたる。
公表用の著者略歴、特典ショートストーリー案を三本に、画稿依頼用のイメージ文章補足などなど。
それに加えて、ウェブやらメルマガやら媒体別にコメントの仕事があるのはどうにかして欲しい。
しかし、愛する『ケモミミ!①』のため、どれも手を抜きたくない仕事なので、なかなか終りが見えないのはご愛嬌だ。
ところで、ネット上の独自調査で、付き合い始めた男女の仲に一ヶ月進展がないと男女関係の四文字熟語に、恐ろしい自然消滅というフラグが現れるらしい。
九時近くになって、執筆ブースに現れた川絵さんは、いつもとは違う口ぶりでこう言った。
「ぶたにん、おる? まだ帰らへんの?」
俺はずっと、ここにいるし、居ても帰ってもやることは同じなので、アズユーライクなのだが、帰り支度で現れた川絵さんは、なぜかとびきりのキメ顔だ。
ひょっとして俺の筆名を救済する名案でも考えてくれたのだろうか。俺は、帰りの荷物をまとめながら、少々、戸惑っていた。