第13話 続・おさなづま
日刊新聞について、消費税の軽減税率8%が認められました。
しかし、新聞ならなんでも軽減されるかというとそうではないようです。
たとえば、定期購読が前提ですので、駅売店やコンビニで買う新聞は10%です。
また、電子版については、その部分だけが切り離して10%となるようです。
さて、本日は3200字となりました。よろしくお願いいたします。
幸い、神田町シアターの近くには飲食店が集まっており、ちょうど時間帯的にもお腹の空く頃合いでもある。雨宿りもかねて、食事をすることになり、俺は川絵さんと道路を挟んで対面に並ぶ民族料理店まで走る。
ただ、急いで駆けていくだけだが、川絵さんと一緒に小さな傘をシェアするだけで、なんだか楽しい。雨水が跳ねる。リア充が爆ぜる。
しかし、飲食店に入り、オーダーを終えた川絵さんは少し濡れた髪をはじきながら、唐突に拗ねた顔を見せる。
「会えるんが当たり前やと思ってたら、例の編集会議から音沙汰なくなるから、ぶたにんって冷たいねんなあって、ちょっとイラッとしててん」
俺は、川絵さんを気遣いながら話を振る。
「あぁ、そう言えば、鷺森さんも何かあったら川絵さんに相談するようにって言われていたような……そう言えば、相談じゃないんだけど、ケモミミの刊行日を秘密にしなきゃいけない理由ってなんでなの?」
「それは、刊行日がいろんな原因でズレるからやん」
「と言うと……?」
「印刷業者との調整とか、色校で複雑なデザイン調整が要るとか言う技術的なもんから、他社のタイトルが被ったとか、営業サイドのいろいろまで、全部合わして、絶対にこの日に出すって決めるんがオフィシャルやねん。サンラ文庫で言うと刊行2ヶ月前の営業会議がオフィシャルやわ」
なるほど、言われてみるとそんなところなのか。わざわざ、中央道をかっ飛ばしてきた紀伊馬チナツに明日以降、伝えるべきか悩ましい。
そう言えば、ケモミミで出されていた、烈火の如き熱量で恋愛を語る三熊さんからの宿題がまだだった。
「その……別の話で、三熊さんって、怖い人なの?」
「まあ、この前の打ち合わせでわかってると思うけど、作家さんにはちゃんと、やって欲しいことを理由もコミで伝える人やわ。無理に、出来へんことをやれって言うタイプやないから安心しとき。でもな……」
川絵さんは、俺の顔をのぞきこんで言う。
「やれますって言うたことを、やってませんでした、では通用せえへん人やから、気ぃつけや。たとえば、前の打ち合わせで言うてた恋愛描写のブラッシュアップとかは、なんとかしとかんと、どやされんで」
『どやされる』という、怒鳴られ、何かやられるような言葉が、三熊さんの体育会のノリに妙にマッチしていて、リアルに怖い。
今日一日、格物致知の恋愛集中講座を受講したはずなのに、何も解決していない俺は、まだ見ぬ三熊さんの怒気に、気息奄々としていた。
「……俺、どやされたくないんだけど」
「まさか、あれから10日間以上あって、食っちゃ寝、食っちゃ寝してましたってワケじゃあないんやろ」
実のところ、ロクな成果もないまま、10日間以上、食っちゃ寝、食っちゃ寝していた。
でも、人間、食べないと死ぬし、寝ないと死ぬ。食っちゃ寝のいったい、何が悪いんだよ。それに、恋愛なんて、しなくても死なないし……
「ぶたにん、そう言えば、恋愛は研究中って言うてたけど、どんな感じなん?」
俺は、おさなづま研究のエロ本の部分を微妙にぼかして、包み隠さず川絵さんに再び発表する。
「それって、おさなづまのリアクションが薄いんちゃうん?」
川絵さんは容赦なく指摘するが、エロ本にリアクションを求めてはいけない。
エロ本が恥ずかしがったり、たじろいだりしたら、見るほうが疲れてしまう。
「とりあえず、おさなづまは横においといて、私との場合で描写してみたらええやん。ちょっとは変わるんちゃうん? 頑張って打ち直ししよか」
なるほど、言われてみれば、具体的に事例があったほうが書きやすく、体験談のほうが作り話よりも真に迫ることも多いだろう。
まもなく雨も晴れて出版社に戻って、川絵さんとの出来事を反芻するうちに、徐々に『おさなづま』研究と今日の体験が止揚する。
すなわち、『おさなづま』が単なるエロ本だったのに対して、今度の続・おさなづま研究は、ちゃんとした人をモデルにしている。
家に帰るまでに『続・おさなづま』を考察し尽くした俺は、部屋に戻るなり堪らずノーパソを開き、一気呵成に『続・おさなづま』を書き上げ、川絵さんにメールする。
『続・おさなづま』(作:馬丘 雲)
俺が、『続・おさなづま』に出会ったのは神保町の雑居ビルの立ち並ぶ一角。編集長から紹介された『続・おさなづま』は、とびきりの美人だった。
初めて訪れた出版社で、紹介された『続・おさなづま』は、新進気鋭のフリーの編集者だ。
その時の俺はと言えば、一念発起して書き上げたSFダークファンタジーが運良く編集長の目に留まって、呼び出しを受けた一介の小汚い高校生に過ぎない。
しかし、身分の差など微塵も気にかけることなく、俺は、身の程知らずにも『続・おさなづま』に恋心を抱いてしまう。
俺が『続・おさなづま』について知っているのは、名前と電話番号、そして独特の地方訛りの語り口だけだ。
聞くならく『続・おさなづま』は定時制の高校にすると、一人、男社会の出版業界に身を投じて、フリー編集者として渡り歩いてきたとのことである。
当然、女だてらにと反発を買ったり、使えないと継子扱いされたり、並々ならぬ苦労があったはずだ。
時には、仕事の上で、セクハラまがいの嫌がらせを受けたり、ひょっとすると身体を求められたりすることもあったかも知れない。
さらに、その男社会で一旗揚げようと言うのだから大変だ。男の妬み嫉みは女の比ではない。
パワハラ、セクハラ、マタハラ、アルハラ、ありとあらゆるハラスメントと闘う日々が続いたに違いたことは容易に想像がつく。
俺は、そうした『続・おさなづま』の事情などお構い無しで惚れた腫れたと舞い上がっているのであるから、お目出度いものだ。
しかし、次第に編集部に出入りするようになった俺は、『続・おさなづま』と気脈を通じるようになる。
出社の日は、毎日、『続・おさなづま』に会えることが嬉しくもあり、楽しくもある。
その一方で、休日、会えない日には、気を揉み『続・おさなづま』が、いま、何をしているか詮索をしながら、切なく物思いに耽る。
そして、次に会った時には、嬉しさの一方で、それを気取られまいと妙な気を遣ったりするのだ。
しかし、会うたびに思いは募り、俺の胸は締めつけられるように『続・おさなづま』を求める。
ついに、決着をつけるべく、俺は、昔の大岡越前守の「子争い」の故事に倣って、左手を馬に、右手を『続・おさなづま』に引かせる。
無論、俺の身体を気遣って、先に手を放したほうが本当の恋人という寸法だ。
いよいよ、「子争い」が始まるが、こんな舞台装置は茶番のための道具に過ぎず、俺の心は『続・おさなづま』一筋だ。
俺は、矢も盾もたまらず、馬を振りほどき、恥ずかしながらも、好きだ、と思いの丈を告げて『続・おさなづま』と慕い合う関係になる……
おお、何だか『おさなづま』から多少進歩している気がするが、なにか物足りない。そう、俺の中にある川絵さんについてのバックグラウンド情報があまりにも少ないのだ。
これでは、リアルに川絵さんに恥じ入らせるまでの『続・おさなづま』を脱稿できない。
まさかと思って、『鵜野目川絵』と入れてネット検索しても、『もしかして:鵜の目』などと出てくる始末で、何の役にも立たない。
業界三年目の編集者がネット検索に出てくるほど、編集業界も甘くないということなのだろうか。俺は、無念の思いで時間切れ送信を余儀なくされる。
昨日は、恋愛談義の上の話で近付いただけで、俺と川絵さんの関係は、案外、無関係なのではないだろうか。恋愛関係に落ちる男女が、ネットで相手の名前をエゴサするなんて聞いたことが無い。
そもそも、そんな所で見てしまう個人情報なんて、便所の落書きのようなものでしか無いのだろうが……
出社早々、編集ブースで川絵さんを見つけると、俺は何か言おうとして、もにょる。
しかし、もにょる俺を放置してくれるほど、川絵さんも大人しくはない。やはり、昨日、送った『続・おさなづま』の書きぶりが気に入らないようだ。
「うーん……それにしても『続・おさなづま』の描写が少なすぎやわ。もっと、ちゃんと書いてよ」
その不満に関しては、俺としても言いたいことはある。
「俺、川絵さんのことよく知らなくて……その、『二編』の仕事以外に何をしてるかも知らないし、どうして、編集の仕事につこうとしたのかも知らないし」
「知りたいん?」
知りたいけど、知ってどうするという正論が頭の片方にある。いま眼の前にいる川絵さんが、川絵さんであって、これまでの川絵さんがどうだったかは関係ないじゃないか。
しかし、下衆な生き物である俺は思わず言ってしまう。
「はい、できれば他にも、いろいろ知りたいんだけど……」
「一気に言うてくれるなあ、私かって、ぶたにんのこと、『二編』におることと、高校生やっちゅうこと以外、そんなに知らんねんで」
川絵さん、知っているじゃないですか、俺のすべてを。
俺から高校生という身分を剥奪して、『二編』で編集作家をしていることを取り除くと、もう、残るものは、骨と皮だけだ。
すると、川絵さんは編集ブースで鷺森さんに何やら頼みごとをしている。俺がじっとそれを見ていると、川絵さんは厄介払いするかのように言う。
「ぶたにんは、執筆ブースの方に行っといて」
そう言った川絵さんは、あとから執筆ブースに、手に茶封筒を持って現れる。
「とりあえず、私の個人情報。二年前の履歴書やけど、小説の直しが終わったら、見てもええで……その、私もぶたにんの履歴書見たし……これで、おあいこな」
そう言い放って、恥ずかしそうに執筆ブースを出て行く川絵さんを見ていると、俺は、小説の直しなんて待っていられず、茶封筒の封を切ってしまう誘惑に駆られる。
セロテープ一枚で形だけガードされた茶封筒を前に、俺は、考える。いったい、俺は、川絵さんの何を知りたいんだろう。
川絵さんの公式プロフィール? スリーサイズ? 趣味、好み? 性癖、恋愛遍歴?
しかし、面と向かって訊くのは恥ずかしい。
なんせ、答えてもらえる保証はないし、近づき過ぎて川絵さんの嫌な面を見てしまうのも怖いし、根掘り葉掘り詮索して、嫌われてしまうのは何より怖い。
でも、それが理解っていても、俺としては、川絵さんが今朝、どのような姿で起きて、何を食べて、何を思って神保町の駅まで来たのか、そんな瑣末なことですら興味津々だ。
もう、好きになることとは、相手のことをよく知ることと言って差し支えないのではないだろうか。
よく言われる男女交際のイチャイチャも、相手が何にどう反応するのかが知りたくてやっていると言うのなら、納得も行く。
ジリジリと穴の開くほど、茶封筒を眺めた俺は、そのまま、封筒を制服のジャケットの内ポケットにしまい込む。
履歴書に書いてある氏名、住所に生年月日。そんな乾いた情報は要らない。いや、でも、意外な特技とかが書いてありそうで多少は見たい気がする。
しかし、それを見たとしても、それだけの情報では満たされずに、心のなかは、また、それ以上の川絵さん情報を要求するだろう。
たかが履歴書、されど履歴書、今にでも封を開きたいところだが、俺は小説の直しが終わっていないうちに、封を切ってしまうのは、お約束すぎて躊躇われる。