第9話 ラキスケにトキメケ
出版売上の減少に悩まされる日本の出版各社ですが、米国の状況はどうでしょう。
2015年1月−6月の米国書籍売上は前年比4.1%減の55億8千万ドルだったようです。
どうしても、ネットメディアが書籍雑誌を代替する傾向はどこも同じようです。
なお、電子書籍も1割以上の減少で、年代別ではヤングアダルト層の減少が顕著です。
ラノベで潤っている分、日本のほうがマシと言えるかもしれません。
さて、本日は3100字となりました。どうぞよろしくお願いいたします。
「な……何をしていらっしゃいますの? 不潔だわ」
何だよ、これだけ清潔にしているのに、まだ不潔とは、言いがかりも甚だしい。
「チナツちゃん、アホなこと言いな。負傷退場中やん」
「そ、そんなことをしてまで、ぶたにんの歓心を買おうだなんて嫌ですわ。不潔よ、不潔」
既に、除菌済の俺の関心を買うことまでが不潔の守備範囲なのか。
紀伊馬チナツの衛生概念を疑ってしまう。
「鼻血やねん、こうやって頭を高くして、寝かしとくんが一番やねんて」
「お待ちなさい。私の父が大学時代に行っていた施術はこれとは甚だしく異なりますわ。鵜野目さん、ぶたにんに近づくために虚言を弄しましたわね」
虚言を弄する、なんて、とんでも時代劇だ。しかし、そこから悲劇は始まる。
「嘘や無いて。そんなん言うんやったら、自分がやってみいや、代わったるわ」
「それなら、そのままぶたにんの上体を起こして、出血の状況を確かめて下さいます?」
俺の鼻に、ティッシュを詰めて出すと血が付いており、残念ながら止血に至っていない。
それを見て紀伊馬チナツは目を光らせて俺に近づいてくる。もう、嫌な予感しかしないのだが、両の手で鼻を抑えている状況では如何ともしがたい。
「ぶたにん、御免遊ばせ」
どんっ、どんっ、どんっ、どんっ。
「チナツちゃん、そんなに後頭部、どついたら、ぶたにん、小説書かれへんようになんで」
「大丈夫、小説を書くのに必要なのは大脳皮質連合野ですから、この辺りは少々傷めても宜しくてですわ。鮫貝さん、近くでレンコンか大根のおろし汁を調達してきなさい。止血に必要ですわ」
有無を言わせない紀伊馬チナツの視線に、鮫男は驚くほど従順だ。
一方、後頭部を強打すること3分間。まったく、血が止まる様子がないまま、紀伊馬チナツは治療方針を転換する。
「次に、鼻をかみなさい。出血が弱まるまで続けなさい……あとは、鮫貝さんの薬草が間に合うかどうか……神様! どうか私に免じてぶたにんを死の淵から甦らせ給え」
紀伊馬チナツは跪いて、明後日の方角に向かって祈りはじめた。
俺は申し訳程度に鼻をかむと、新しいティッシュを顔に当てながら、一連の騒動を見ていた川絵さんの膝に頭を戻す。俺の命も鮫貝の薬草次第なのか。
目を見開くと上で川絵さんが微笑いながら訊く。
「ぶたにん、大丈夫なん?」
きまりの悪い俺は、小さく頷いて、あとは呪文詠唱に入る。
「げ、ゲフンゲフン」
「あはははっ、男前やなあ、きょうのぶたにんは」
川絵さんの左手が俺の頭を掻いぐりながら快活に笑う。
ただ、状況がどうにも落ち着かないのは、この部屋に四人揃っていないからだろうと思った俺は、川絵さんのショートパンツを横目に、少し憂鬱だ。
さらに憂鬱を加速させる御令嬢も健在だ。
「ああ、神よ、ついに、ぶたにんを見放しますのね」
なんだか、紀伊馬チナツに祈られていても有り難みが失せるのは気のせいだろうか。
そうしているうちに遠くから足音が近づいてきて、執筆ブースの扉が勢い良く開け放たれる。
「はぁはぁっ、き、紀伊馬さん、ありました。お望みのレンコンです」
「さすが、鮫貝さん。さあ、早くぶたにんにレンコンのおろし汁を与えなさい」
鮫男は困ったような声で言う。
「残念ながら、手に入れられたのは、ホールでパックされたレンコンで、おろし汁にはなっておりません」
「鮫貝っ、なんとかなりませんのっ。どうにか、おろし汁になさいませ……ああ、神様、むごたらしい試練をどうして、ぶたにんばかりに」
ついに鮫貝からも『さん』が消えたか。俺は、かなり、どうでも良い風に話を聞いていたが、鮫貝が妙なものに気づく。
「紀伊馬さん、よく見て下さい。パックのここに、レンコンの汁が」
「あら本当。よくやったわ、鮫貝。これも神の思し召しですわ。レンコンの新鮮なおろし汁には止血作用がありますの。早速、ぶたにんの鼻に流し込んでやって頂戴」
相当に嫌な会話が進行し、ついに俺自身に累が及ぶことになって焦る。俺であれ、誰であれ、鼻から液体を流し込まれるのは避けたいだろう。
しかし、さっきから口で呼吸しているせいか、喉がカラカラで声が出にくいのが、もどかしい。
「ちょっと待ち、鮫貝君。それって汁やろ。茶色いしバッチイやん」
川絵さんが頑張ってくれるのが頼もしい限りだ。どうにか、茶色いバッチイ液体を闇に葬って欲しい。
「でも、何もしないよりはマシかと……、紀伊馬さんも新鮮なレンコンのおろし汁には止血作用があると」
「それ、新鮮ちゃうやん? おろし汁でもないし」
「買いたてホヤホヤですよ」
「鮫貝君、あんたの頭、血の巡りが悪いんやったら、首から上、圧迫止血すんで」
川絵さんのお陰で、どうにか、無法な鮫が踵を返したようだ。
鮫貝は紀伊馬チナツに、下男のように報告をすると、案の定、こっぴどく叱られている。
「室町時代からの民間療法なんだから、現代人のあなたがレンコンをおろせないはずはないでしょう。さっさとおろし汁にしてきなさい」
まるで、封建制時代の我儘お姫様と、その下男という感じだが、おろし汁をどうにか拒否したい俺は鮫男に言う。
「鼻血の方は収まってきましたから、大丈夫です」
「ホンマに大丈夫なんかいな。油断してたら、切り傷やからすぐ出血するで」
川絵さんの気遣いは有り難いが、俺には避けなければならない汁がある。
俺は、出血話がふたたび盛り上がらないうちに、話の方向を別に向けなければと時計を見て皆に言う。
「ほ、ほら、四時が近いですから、そろそろ神田町シアターに向かいませんか」
「そうですわね、開演前一時間ですわ。ちょうど、傷口が塞がったのは幸いですわ。ぶたにん、私をエスコートしなさい。あと、鮫貝、申し付けは分かってますわね」
既に鮫貝は、下男然としてブレるところがない。
「御意」
一体、鮫は何のために下男に身をやつしているのか、知りたくなるが、教えてはくれないだろう。
俺は万一に備えてティッシュを鼻に詰めようとするが、元陸上部、川絵さんがそれを止める。
「鼻血の時はティッシュより、コットンのほうがええで」
俺は、川絵さんにコットンを適量詰めてもらった上で、念の為にティッシュを少し指定カバンの中に入れて、執筆ブースを後にする。
地獄ような編集部のある出版社から、一歩、外に出ると、曇り空が暮れなずんで、少し暗く湿気も感じられる。
それでも暖かになった気候の中、川絵さんが言う。
「神田町シアターは、ここからゆっくり歩いて十分ほどや。今日は平日やし、そんなに道も混めへんわ。天気も思ったよりは、ええなあ」
川絵さんが先頭を切って歩き出すと、それに従って俺が続き、紀伊馬チナツが俺の後を追って、その後ろに下男の鮫貝が続く。
少し鼻血の後遺症を引きずっていた俺は、地に足がついていなかったようで、紀伊馬チナツから軽く叱られる。
「ぶたにん、止まりなさい。エスコートをなさいと私が言ったのをお忘れなの?」
「あ、はい。ええと、どうしたら……」
「ぶたにん、貧しいというのは罪ね。エスコートというのは、殿方が左肘を貸すのよ。軽く左肘を後ろに引きなさい」
俺の制服の左肘を紀伊馬チナツが摘む。ぎこちなく、俺が先行してエスコートしようとするが、二人の歩幅が合わず、何度か摘まれた制服が紀伊馬チナツの手を離れる。
「いったい、何をしていらっしゃいますの。ぶたにん、殿方がドン臭いと息が合いませんわよ」
少し、貧血気味なのか、俺もうまく息を合わせることが出来ない。
というより、もう少し、がっちり腕を掴んで欲しいのだが、汚いものを摘むような掴み方では、手から離れてしまうのはやむを得ないんじゃないだろうか。
血の気の多そうな漆黒のケモミミこと、紀伊馬チナツに、鮫男が言う。
「紀伊馬さん、僕がエスコートの見本を見せましょうか?」
「鮫貝、私に構わず、あなたはあなたの仕事をしなさい」
ほう、鮫貝に仕事があったとは驚きだ。確か、社を出る前に申し付けを守れとか言われていたようだが、内容は何だろうと思っていると、鮫貝は慌てて川絵さんのそばに駆け寄って行く。
しかし、近寄る鮫貝を川絵さんは、余り相手にしていないようで、進んでいくと、やがて、鮫貝が俺のすぐ前を歩いているような状況になる。
鮫男は俺の隣に来て小声で、要らないことをささやき始める。
「ぶたにん君、君は気づいていないかもしれないが、この勝負、川絵さんの様子が可怪しいとは思わないか?」
「それって、何が……」
「だから、川絵さんが勝とうとしていないようには見えないか、ということだよ」
「えっ……?」
たしかに今回のぶたにん争奪戦で、川絵さんが俺の唇を奪う素振りが見えないことについては、かねがね気になっていたところではある。
紀伊馬チナツに売られた喧嘩で、彼女の怒涛とも言える攻めの前に、川絵さんが一歩引いていた様な感があったので目立たなかったが、川絵さんによるアプローチは残念ながら無い。
「傍目八目、僕の見立てでは、川絵さんは映画が見たかっただけで、勝負については関心がないんじゃないかな」
「でも、執筆ブースでは妙なことはするなって言って……」
そうだな、妙なことはするなとは言われたが、川絵さんが妙なことをしたいとは、一言も言っていない。
「ぶたにん君、そもそも、川絵さんにとって、この勝負、まったくメリットがないだろう」
いや、異議ありだ。
この勝負に勝つことで、現役都立高校生、武谷新樹の柔らかな唇をほしいままに出来る。さらに男子高校生のファーストキスのプレミア付きだ。
さて、物言えば唇寒し秋の風とは言うが、春の風も意外に厳しい。
鮫男の心ない言葉が、さらに追い打ちをかける。
「僕も、紀伊馬さんから、さっき、人助けだと思って手伝うようにと説得されたよ……」
意外にも鮫の方から下男になった理由っぽいものを吐露してきた。
「当然、僕は紀伊馬さんが不幸になるのを見過ごせないけれど、まずは、川絵さんを勝たせないようにしろと、また小切手を……ゲフンゲフン」
おいおい、いったい、この金の亡者にして悪魔の子、鮫貝は幾らで心を売り払ったのだろう。
「要するに、紀伊馬さんは何故だか人助けだと思っているだけだし、川絵さんは映画が見たいだけだ。だから、ぶたにん君も映画を見るだけで帰ろう……なっ。それじゃあ、僕は引続き川絵さんを別の映画に誘う攪乱戦術を授けられているから、ぶたにん君も、今日は、おとなしく帰りたまえ」
勝手に、偉そうに言い残すと、鮫男は歩を早め、また川絵さんに追いついて、隣で何やら攪乱戦術を囁いている。
後ろを見ると、もう、エスコートを諦めて形だけ制服の端をグイと捕まえている紀伊馬チナツがいる。
鮫が離れるのを見計らって、紀伊馬チナツが小声で恥ずかしげに囁く。
「ぶたにん、この辺りではぐれて二人きりになりませんこと。私、少し、疲れましたわ。近くに休めそうなところ……あ、あのビルで休憩が取れない、見ていらっしゃい」
俺は、休むのには賛成だったので、紀伊馬チナツの言う妙な雰囲気の漂うビルの正体を確かめに走った。