第8話 時にはラノベの主人公のように
日本で一番大きな出版社は?と思って『出版年鑑』をくると意外な社名が出ます。
『TOTO(従業員8173名)』、『近畿日本ツーリスト(従7400名)』…何か違う。
従業員規模では就職情報誌、教育出版が営業部門の関係もあって上位に来ます。
ラノベでダントツのKADOKAWAは7位1946名、講ラよりBOXで健闘の講談社が9位920名、ダッシュで勢いのある集英社は11位787名、ガガガの小学館が13位743名、このラノの宝島社が49位212名となります。
ちなみに、太陽系出版社は300名弱の設定です。
さて、本日は、3500字となりました。どうぞよろしくお願いいたします。
俺が呪文の効果を確かめようと大きく目を見開くと、俺の肩から手をおろして紀伊馬チナツが、顔を除菌シートで拭きながら抗議をしてくる。
「ア・ナ・タ、何をしてるの? 目を閉じてくしゃみをするなんて土人か未開人の所作ですわよ。改宗……いえ、改心しなさい。まさに、格差社会の闇ですわ」
「わあ、そうなのか。すみません、すみません」
俺は、何が間違っていたのか見当がつかないないが、とにかく謝る。
「それに、何かしら、この臭い……生肉の腐臭とニラの臭いが、ううっ。ぶたにん、あなた、酷い口臭がいたしますわ。格差社会の隅で、いったい、何を拾い食いされたんですの?」
「いや、ランチは、学食のレバニラ定食を食べただけで……」
この飽食の日本で、昼食を拾い食いでまかなう高校生は、貧富の別なく、かなりレアというか、あり得ない。
素直に俺が、昼食の話をすると、なぜか俺が叱られる。
「あなた、男子として緊張感が足りませんことよ。常在戦場、いつ何時、女子が空から降ってきて接吻を求められるかもしれないと云うのに、ランチでそんなものを……私とて、大和撫子として幼い時分から常在扇情を叩き込まれておりますわ」
「わぁっ、ごめんなさい。レバニラ反対! 接吻バンザイ!」
その場の勢いというもので、わけの分からないうちに謝ってしまったが、空から降ってくる女の子に対する備えは常時、不要じゃないだろうか。
しかし、罪科はすべて俺にありとして、白痴女紀伊馬チナツの言葉は苛烈さを増すばかりだ。
「ぶたにん、お口のエチケットとして、まずは、歯磨きをして、マウスウォッシュの後、ブレスケア。最後に除菌シートで念入りにあなたの便座……ではなくて、あなたの唇をきれいに拭き取りなさい」
今、俺の唇を、便座と言わなかったか。なんだか、空から降ってきた女の子との接吻を前にして、残念な気持ちを禁じ得ない。
「は、はい」
俺は、不承不承、コンビニで歯ブラシセットを買って、歯磨きを済ませる。
続いて紀伊馬から借りた口腔衛生液で口内を殺菌処理し、ブレスケアドロップで口臭の元を断って、最後に除菌シートでくちびるを拭かれることとなる。
こうして、俺が、口臭改善を図っている間も、鮫も川絵さんもこちらを見ている。鮫男は、川絵さんをけしかけるように言う。
「いいんですか、放っておいて。紀伊馬さんが消毒済みの無菌豚に襲撃されますよ」
それに対して、川絵さんの回答は少しツレない。
「なんか見てると、ツッコむんが面倒くさなってきたわ」
一連の口臭騒動にケリを付け、満を持して、紀伊馬チナツが俺の隣に鎮座する。俺の口からはピリピリするほどのミント臭がする。
「い、言われた通り、もう、口臭はしないはずです」
紀伊馬チナツは俺から返された口腔衛生液と除菌シートを鞄にしまいながら、まだ首を傾げている。
「そう、そのはずですわよねえ。ですけど、獣のような臭いがしますわ……ぶたにん、とりあえず、しばらく呼吸を止めて下さいませんこと。あと、唾液の分泌も」
なんだか、人間やめますか? 程度に難易度の高い要請なんだが……
それでも、紀伊馬チナツが俺の身体の臭いのしそうな、あらゆる場所を身体を密着させるように、鼻を近づけて嗅ぎあさる。
とてつもなく失礼なことをされているのだが、俺の身体を、痴れた乳が靭やかに蹂躙していく感覚には、どうにも抗えない男子高校生17歳。その脳内には、快楽物質が満ち溢れる。
コノ抗イ難イ、心地イイ感覚ハナンダ? マルデ、ラノベノ主人公ジャナイカ?
「理解りましたわ。ぶたにん、御覧なさい。あなたの鼻の穴に臭いの元凶のムダ毛がありましたわ」
俺は手鏡で見せられ、先の丸い小さなハサミで『ムダ毛』処理をされる羽目になる。
しかし、痴女とはいえ、ちょこんと腰の上に尻を乗せられてマウンティングされると、鼻毛を掻っ捌かれても文句は言えない。
それにしても、世のラノベの主人公は斯くの如き甘美な瞬間を、10ページおきに味わっていたとは驚きだ。
俺は脳裏にラノベ主人公のトキメキを焼き付けると、脳天からファンファーレが聞こえる。
俺ノラノベ主人公スキルガ、レベル9にナッタ! ムダ毛ガ生エナクナッタ!
す、すげえよ、ラノベ主人公。しかし、好事魔多し、痴れたハサミの先が、サクリと俺の副鼻腔を傷つける。
鼻の右端から唇に、水のようなものがダラリと垂れてくるが、それは、洟ではなく血だ。
俺は驚いて飛び起きる。それまで、艶めかしく手を動かしていた紀伊馬チナツが、ハサミに付いた俺の血を見て驚く。
「まぁっ、ぶたにん! 私のハサミに何か恨みでも」
おい、そっちじゃない。俺は、滴り落ちる血を手のひらで受けて、もう片手で鼻を押さえながら言う。
「ちがう、ハサミで鼻を切ってる」
それを聞いた紀伊馬チナツが叫ぶ。
「まあっ、アタシのゾーッリンッゲンッの刃に赤い汚れが……」
おい、そっちじゃないだろう。
俺の横では、鮫男が他人事のように言う。
「これ、放置してると床が汚れますよ」
いや、お前の心配も床のほうなのかよ。
川絵さんは鮫の言葉より少し早く、俺の頭を掴んで下から覗き込む。
「ぶたにん、ちょっと見せてみ……うわっ、ちょっとだけやけど、結構、切れてるわ……上向いて、軽く押さえて、こっちで横になり」
元陸上部の川絵さんがティッシュで右手に零れた血をあらかた拭き終わると、長机の逆側で、川絵さんの膝に頭を乗せられて、俺は横になる。
川絵さんは夏が近づいているせいか茶系の落ち着いたショートパンツに黒っぽいキュロットを穿いている。
その上に鎮座する俺は、めくるめくラッキースケベ展開、即ち、ラキスケ展開にラノベ主人公をいっぱいに感じつつも、川絵さんのキュロットに血がつかないよう気をつける。
さらに、何気に横を見ると、机下の紀伊馬チナツの制服のスカートが視界に入ってくる。しかたなく、無防備な白い太股の洞窟の奥へと視線を滑らせながら、またも、ラノベ主人公のラキスケお宝映像を脳裏に焼き付ける。
モウ、俺、ラノベ主人公スキルガ、レベル99ヲ超エタンジャナイダロウカ?
しかし、俺の視線を洞窟の奥に入れようとすると、鮫が邪魔をするのはラノベ的ではない。さらに、川絵さんも横に流れる目を上に戻す。
「鼻血は頭を高くして、傷口を軽く圧迫しながら、しばらく待つねん」
川絵さんの意外と冷たい指先が上唇から鼻にかけて触れている。しばらく経って、川絵さんは俺に言う。
「ぶたにん、ここ、自分で持ってや」
俺は、言われるがままに右の鼻に手を当てる。一方、川絵さんは少し血のついたハサミを除菌ティッシュで拭うとそれを構えてじろりと俺の顔を見据えて言う。
「そのままやで、動かんどきや」
何をするかと思うと、サクリサクリと小気味良い音と感触が伝わってくる。
見ると、切り残された左側の鼻の『ムダ毛』を処理してくれているようだ。
川絵さん、マジ天使じゃん。不覚にも心臓を打つ脈は乱れ、顔が紅潮する。これって、恋というものなのでしょうか?
不覚にも、俺のラノベ主人公恋愛スキルが上昇する。
「川絵さん、有り難うございます」
律儀にお礼を言ったのが災いしたのか、ぴりっと痛覚に刺激が走る。
「あほ、動いたらアカン、言うたやん。ああ、もう動かんどきや」
言葉は冷静だが、川絵さんの目が泳いでいて、いったい何が起きたのか図りかねるが、次の瞬間、川絵さんの指が左鼻を塞ぐ。
「げっふぅ」
左鼻からの呼吸ライフラインが途絶したため、口で息を試みると、唾液ではない方の体液が喉を行進中だ。
思わず飲み込んで、咳をしようとすると、さらに血が、ドロリと流れ込んできて気持ちが悪い。
「ゴメン、切ってもうたわ」
ごめんと言われても、大天使川絵様を責めるも、許すもない。
「大丈夫、大丈夫。左は右みたいに深くまで切れてないし、ちょっと、男前になってるしな」
俺は少々の不満を抑えながら、川絵さんの膝上を占有し続ける。鮫は遠巻きに見ているだけで襲っては来ない。そう安心した俺が馬鹿だった。
この部屋には、もう一人、人間がいたのである。しかも、とびきり美少女の痴嬢様だ。
「ぶたにん……何をしていらっしゃいますの? 不潔ですわ」
かなり浄化と救済の進んでいた俺にとっては、この言葉の暴力は奇襲攻撃に近かった。