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神田神保町の高校生あちゃらか編集手帳  作者: 錦坂茶寮
PART4 書籍化デビューと学校バレの五月病
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第7話 恋のアヴァンチュール

出版社が雑誌書籍の生産の上流に位置していることは疑いのない事実です。

出版社が企画し発注し製本し、取次に卸すことを起点に出版業界は動きます。


しかし、再販売価格維持制度のもと、出版社の資金回収条件は厳しいものがあります。


書籍は出荷後2ヶ月経たないと実売が確定しませんので、資金が入りません。

雑誌は定期刊なら次々号出荷時に取次からの入金となります。


資金繰りは総務の管轄ですが、営業も数字には目を光らせています。

編集者には営業部を通じてのフィードバックとなるようです。


本日は3200字となりました。どうぞよろしくお願いいたします。

「ひょっとして、隣のビルの前の道路に止めてある外車はお客様の車でしょうか?」


 総務の鷺森女史が、執筆ブースの入り口で一堂に尋ねると、紀伊馬チナツは頷いて言う。


「確かに、当家のベントレーかもしれませんが、それがどうか致しまして?」


「受付のほうに隣のビルの方が、早々に移動するようにと言伝が入っておりまして」


「分かりました、すぐに移動させましょう。さあ、ぶたにん。車内で恋愛講座をしながら、神保町シアターに向かいますわよ」


 紀伊馬チナツが俺の手を取ろうとした刹那、川絵さんの声が飛ぶ。


「神保町シアターって、すぐそこやし、開演時間もまだまだやで」


「それはそうですけども……」


 川絵さんの言葉に気勢を削がれたチナツに、容赦ない追い打ちがかかる。


「それに外車の中で長々と何する気なんよ。そんな恋愛講座なんか聞いたことないで」


 外に止まっているベントレーを咎められると、紀伊馬チナツは、川絵さんへの敵愾心を露わにする。


「そんな、私が車内でナニをするなんて……、それでないと下賤なあなたに勝てないとでも思っていらっしゃるの? ならば、車は今すぐ自宅に回させますわ」


 そう言うやいなや、目の前で、紀伊馬チナツは指定鞄からスマホを取り出して、運転手氏に言う。


「あの、私ですわ……ご苦労様、今日はご親切にも出版社の方に送って頂きますから、もう帰って結構よ……ええ大丈夫ですわ。それじゃあ」


 挑発する紀伊馬チナツの言葉に、乗らまいとする川絵さんだが、出版社の方を代表して、こう告げる。


「誰も、あんたなんか家に送って行けへんで。勝手に一人で帰りや」


 しかし、川絵さんの言葉を受けて立つのは意外にも鮫男だったりする。


「紀伊馬さん、ご心配なく。この鮫貝さめがいさとしが送って差し上げますよ」


 この状況を欣喜雀躍してみているのは、他でもない。紀伊馬チナツだ。


「鵜野目さん、今のが聞こえまして? どうやら、早速お送りいただける方がいらっしゃいますわよ、その……そちらの素敵な殿方が」


 俺には、鮫貝が何をしたいのか、よく理解らなかったが、どうやら、紀伊馬チナツに自分を必死に売り込んでいるようにも見える。


「鮫貝です。一応、東大生で企業経営者と推理作家を目指しています。薬学部志望ですが、通信教育で経営学と帝王学も修めている社長のタマゴでもあります」


 紀伊馬チナツからお礼の言葉を受けると、当然ながら、鵜野目川絵からは非難の言葉を受けることになる。


「鮫貝君、あんたは何、考えてんのよ」


 それに対する回答も持ち合わせているのが、鮫の鮫たる所以だ。


「僕は、正義と美を愛する神に仕える忠実な下僕……それだけです」


 鮫貝氏、クリスチャンだったのか。

 その神の子、鮫貝を、神をも恐れぬ川絵さんは容赦なく恐喝する。


「僕でも、下僕でも、どっちでもええから、さっきの神田町シアターのチケット出しいや。五枚はあったやん」


 どこから入手したのか、東大生の鮫男は長財布からチケットを取り出す。


「お待ちなさい。鮫貝さん。そのチケット、私が買い上げますわ」


 言うが早いか、紀伊馬チナツは鮫貝からチケットを取り上げて枚数を数え上げると、代わりに一枚の紙が鮫貝に渡される。


 鮫男は、受け取った紙に書いてある内容を、眉をひそめて確かめる。


「え、小切手、ご、伍萬円?」


「一枚一万円はしないと思いまして、足りなかったかしら……」


「滅相もございません。蟹江先輩からの貰い物ですので、お役に立つならどうぞ……この鮫貝、資本主義に仕える忠実な下僕に過ぎません」


 神の子鮫貝が、金の亡者に転落していく。



 そのさまを見届けてから、紀伊馬チナツは5枚のチケットのうち2枚を引き抜いて俺にくれる。


「それでは、ぶたにん。チケットを持って……」


「二枚も? 川絵さんの分?」


 そう言う俺を、紀伊馬チナツはたしなめる。


「そうではございませんことよ。私を神田町シアターにエスコートなさい。そうしたことは殿方の役目ですわよ」


「は、はあ……」


 ちなみに、神田町シアターなんてどこにあるのか、俺は知らないのだが。


「あらあら、余ったチケットがこんなにも、あっても困りますので、恋愛映画のお好きな鵜野目さんにでも、さし上げましょうかしら」


 目の前で残りのチケットをひけらかす紀伊馬チナツを、川絵さんは煩わしそうに相手をする。


「要らんわ、そんな高そうなチケット。私は当日券で入るから、ホンマに要らんで」


「仕方ありませんわ。余りは、ご自由に使っていただくために、こちらに置いておきましょう」


 残ったチケットを長机の中央に置いて、紀伊馬チナツは鼻歌交じりに俺の隣に戻ってくる。


 置かれたチケットに遠慮無く手を伸ばすのは、資本主義の申し子、鮫男論だ。


「川絵さん、要りません?」


 鮫男が2枚のチケットを手にして川絵さんに不要の言を弄する。当然、川絵さんからの返答はない。


 さらに、追い打ちをかけるように、鮫男は言う。


「なら、売りましょうか?」


 小声で川絵さんが鮫男を叱りつける。

「あほ。鮫貝君、あんたにはプライドっちゅうモンが無いの?」


「僕は、資本主義の忠実な下僕に過ぎませんから」


 口答えをする人には川絵さんは容赦がない。


「奴隷の間違いちゃうん」




 チケットには開場十六時、開演十七時と書いてある。映画の題名は『ラバーズ・ブラインド』と書いてあり、恋愛臭漂うこと、しきりである。


 神田町シアターがどこにあるかは知らないが、神田町圏内なら、三十分もあれば充分だろう。


 何か暇つぶしをと思うと、隣りに座る紀伊馬チナツが耳打ちしてくる。


「開演まで、少し時間がございますわね。ぶたにん、恋愛のレッスンの続きをいたしますわよ」


 驚きとともに、一気に緊張感が高まる。


「お、おぅ」


 紀伊馬チナツが膝を気持ち、俺のほうに向けて座り直し俺に訊く。


「それではまず、恋のABCのAについてご存知よね?」


 俺は、紀伊馬チナツの大きな目を見て、思わず言葉が口を衝く。


「ち、近いよ」


 しかし、紀伊馬チナツには俺の言葉は届いていないようだ。


「さぁ、お答えなさい」


 ごまかしが効かない話に俺は包み隠さず思っていることを言う。


「Aは、えぇと……、キス……です」


 周囲を見ると、鮫男も、机の大向うの川絵さんも、しっかり聞き耳をたてている。やばい、でも俺、間違ったこと言ってないよな。


 大体、自分でそう思う時はかなりの確率で間違っている。俺は、紀伊馬チナツに意外なポイントを指摘される。


「ぶたにん、横着はダメよ。基礎はしっかりやるんだから、キスは、K、I、S、Sですわ。Aから始まらないじゃない」


「はい……ぇえ?」


 そこが間違っていたのか、確かにアルファベットだから、何かのイニシャル臭い気はしたのだが……しかし、Aで始まる接吻を意味する単語は、俺の頭のなかにはない。


「いいこと、恋のAは、フランス語のアヴァン、又は、アヴァンチュールから来ていますのよ。要するにご褒美の前には冒険が必要なのよ」


 なんだよ、フランス語なんて知らねえ。俺は、英語も知らないのだが、妙に落ち着きを取り戻して訊き返す。


「ご、ご褒美というのは……?」


「眼の前にございますわ」


 いま、俺の眼の前には、机を大きく乗り出してきている鮫貝の顔が、突き出されている。


「これは、いくら何でも……」


 そして、その顔は、紀伊馬チナツに不要な言を吐く。


「僕が身代わりになります。紀伊馬さん、逃げて下さい」


 鮫は驚きの柔軟な身のこなしで、俺と紀伊馬チナツの間に割り込んで、あろうことか俺を横にずらして腰を落ち着ける。


 どうにも、やりにくいと思ったのは紀伊馬チナツも同じのようで、早速、鮫男を部屋の端に連れて説得する。


 その間に、川絵さんの方を見ると、呆れたようにして小さく呟く。


「ぶたにん、ここは仕事場やで……その、妙なことは、せんどきや」


 チラッと笑顔の川絵さんを見て、震える俺と同時に、安心している俺もいる。


 安心? 俺、不安なのだろうか。

 アヴァンチュール、紀伊馬チナツの冒険を前にビビってはいなかったのか。


「よ、よしっ」


 俺は微妙に気合を入れる。

 それを聞いた川絵さんは、また呆れるように溜め息をついている。


 長机に戻ってきた紀伊馬チナツは、相変わらず上から目線で俺に言う。


「それでは、仕切りなおしですわ。さあ、ぶたにん。私とアヴァンチュールする準備をしなさい」


 そんな、俺、冒険の準備はしていない。素直に訊き返してしまう。


「え、な、何をすれば、いいんでしょう?」


 紀伊馬チナツは大きな目を更に見開いて、俺に命じる。


「ですから、キスをする準備をしなさい」


 一体、キスの準備って何をするんだ。俺は頭を抱え込むが、外野は極めて冷静だ。


 鮫男の声が聞こえてくる。


「いいんですか、アレ、放っておいて」


 それに応じる川絵さんは、かなりやる気が無い。


「ま、まあ、言うことは言うたし、最後は本人の自覚やからなあ」


 俺はその時、キスの準備を必死で考えていた。確か、キスの瞬間に目を閉じるのはマナーだったはずだ。


 職場の規律について、本人の自覚とやらが薄い俺は、ママよと思って目を瞑る。



 しかし、目を瞑る刹那、川絵さんの蔑むような横顔が視野に入り、俺は新たな呪文を試すことを決意する。


 そう、ネットやメールでやる自分へのツッコミと誤魔化しを、同時に行う呪文、『ゲフンゲフン』だ。

 この呪文により、詠唱者は緊張した場面の緩和や、やり直しなど、何らかの猶予を得ることが出来る。


「ゲフンゲフン」


 呪文詠唱とともに、咳払いで散った唾や呼気が付近に舞い、紀伊馬チナツには予想以上の効果が認められた。

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