第4話 ラノベ刊行日はなぜ秘密なのか
2015年の紙の出版市場規模は1兆5220億円(前年比−5.3%)となったようです。
雑誌が不調(前年比−8.4%)で出版不況の回復ならずと各紙記事は締められています。
電子書籍は1502億円と三割以上伸びたようですが、分析はこれからのようです。
さて、本日は3400字です。どうぞ宜しくお願いします。
珍しく、俺なんかに仲良くしようと言う痴女……もとい、痴少女『漆黒のケモミミ』こと、紀伊馬チナツに、冷静なツッコミを入れてくるのは、またもハルキだ。
「いや、紀伊馬、すまん。タケィの本名は武谷って言ってさ。馬丘は筆名な」
しかし、ハルキに視線をくれることもなく、紀伊馬チナツは言い放つ。
「本名でも筆名でも、どちらでも構いませんわ、ぶたにん・馬丘さん。今は塗炭の苦しみに喘いでいると思いますが、いずれ本さえヒットすれば、暮らし向きもきっと楽になりますわ。それまで頑張りなさい」
いや、ぶたにんこそ、外して欲しい名前なのですが、紀伊馬チナツ様。
あと、塗炭の苦しみって、一体、いつの昭和だよ。かなり非道い偏見だよな。
俺が頭を抱えていると、紀伊馬チナツはサラッと素敵なことを言う。
「ぶたにん・馬丘さん、ちなみに本の題名はなんて言うんですか。わかれば、私の父の会社に幾らか購入させますわ」
「おい、マジなのか。会社の経費で落ちるような、なまやさしい本じゃないぞ。ケモミミは萌えラノベだし、そのくせ、放射能とか、ケモノ系の遺伝子組み換えとかハードSF設定入ってるし……」
この中で、唯一、俺のケモミミ作品を読んだことのあるハルキが、冷静にツッコミを入れる。
「ええっ? 放射能? 遺伝子組換え? なんてことなの……」
当然だ。萌えラノベが経費で落ちるのは、ラノベ作家だけだと麹町税務署の都市伝説で聞いたことがある。
「本当に、運命的出会いですわ。私の父は製薬会社を営んでいますので、そうした本は研究用書籍として購入致しましょう。ぶたにん・馬丘、遠慮せずにお言いなさい。さあ」
自然に彼女の手が俺のおとがいに伸びて、アゴクイをする。
おいおい、手非道い痴女だ。
しかし、ここまで来て、俺はようやく重要なことを思い出した。
一つは、紀伊馬チナツが単なる痴女ではなく、大手製薬会社のキーマ製薬の痴女令嬢だということ。そして、もう一つが、チーフ編集の三熊さんから本の出版スケジュールは内密にしておけと言われたことだ。
俺は、慌てて話を切り出す。
「そ、そう言えば、二人ともお願いなんだけど、10月頃に本が出るってことはオフィシャルになるまでは、誰にも言わないで欲しいんだ。じつは、編集部の人から口止めされててさ」
俺は、三熊さんの言葉通り二人に言うと、真っ先にハルキが答えてくれる。
「へえ、何か本格的だな。まあ、誰にも言うつもりはないけどさ。でも、決まったら知らせろよ。その……い、一冊は買ってやるからさ」
ハルキの言葉に、紀伊馬チナツは承服しがたいといった風だ。
「いくら、ぶたにん・馬丘さんの家が貧しいとはいえ、出版社が言論統制を布くことは許されませんわ。私が加勢しますから、今からでもその密室主義の編集部とやらに正義の鉄槌を下しましょう」
密室主義の『二編』にテッツイって……痴女な上に営業部の手先なのか、紀伊馬チナツ。内部事情をご存知なら、より手控えていただきたいのだが。
もし仮に、御為ごかしでやっているなら、今すぐやめて欲しいところだが、彼女の素振りは正義心が漲っているようにしか見えない。きわめて厄介この上ない。
「き、紀伊馬さん。これは言論統制とかではなくて、多分、業務上の秘密とか言うもので」
「それなら、秘密にする理由は何なのですか? 本がいつ出るかなんて、遍く世間様にお知らせこそすれ、秘密にする理由なんてありませんわ。どちらかと言うと、大々的にお祝いしないといけませんわっ」
紀伊馬に筋建てて反論されると、俺としてもウラ筋を立てて反駁したいものだが、正直、なぜ出版スケジュールを内密にする必要があるのか、俺には理解できていなかった。
「そ、その秘密にする理由はまた聞いておきますから、鉄槌の話は、また、後日に」
「とにかく、ぶたにん・馬丘さんは騙されているんです。私は、その編集部とやらに理由を聞かなければ収まりません。事と次第によってはガツンと言って聞かせないといけませんわ。早々に車を用意させますから、一緒に行きましょう」
紀伊馬チナツは、スマホを取り出し校門前に誰かを呼びだそうとしている。ひょっとして殴りこみとかで、屈強な若い衆とかを呼んでるんじゃないだろうな。
俺はすがる思いでハルキに言う。
「おい、ハルキ。紀伊馬さんを、どうにか止めてくれよ」
「どうもこうも、社会勉強も兼ねて、わざわざ公立に転入してきている不思議お嬢さんなんだ。近づいたらどうなるかなんて分かりそうなものだろう? 3組じゃ常識だよ、まったく」
ハルキ、そうした3組の常識は、まだ俺には非常識なんだが、と思うが、もう、どうにもならない。続けてハルキが言う。
「まあ、我々、一般庶民の感覚とはちょっとズレてるみたいで……おそらく、僕らより、タケィと合うんじゃないか、さっき、仲良くしてくださいなんて、羨ましいなあ」
「さて、準備は出来ましたわ。参りましょう」
有無をいわさず、俺は拐われるように連れだされる。ハルキが、笑顔で手を振って見送ってくれる。
まだ、授業中にも関わらず、誰一人、止めてさえくれない。
まあ、殴りこみ痴女に巻き込まれるのは、誰だって嫌だろうけどさ。
そうこうしているうちに、俺は引きずられるように学校を出て、校門前に停めてあった黒塗りの外車に載せられる。
「出版社まで出しなさい」
革の匂いのする車に乗り込むと、紀伊馬チナツは運転手の男に手短に命じる。
しかし、車はびくとも動かない。
しばらくして、運転手氏が申し訳無さそうに紀伊馬チナツに言う。
「お嬢様、どちらの出版社でしょう?」
紀伊馬チナツは鸚鵡返しに俺に訊いてくる。
「どこの出版社なの、言いなさい。ぶたにん・馬丘。これは虐げられたあなたの正当な権利を回復するための闘いよ。さあ、早く」
紀伊馬チナツの迫力に押されて、しかたなく、太陽系出版社の場所を説明すると、車は一路、中央道から神保町を目指す。
俺は、カバンの中からIDカードを取り出すと、首からぶら下げて次の展開を考える。この勢いで紀伊馬チナツをサンラ編集部に連れ込んだら、それこそ、大騒ぎになる。
特に三熊さんなんかと口論になった日には、侃々諤々(かんかんがくがく)、喧々囂々(けんけんごうごう)、議論百出して痴態を晒す可能性が高い。
つまるところ、出版スケジュールを公言出来ない理由が理解ればいいのだから、穏やかに話をおさめてくれそうな征次編集長か、川絵さんに出てきてもらったほうが良い。
俺の気持ちが、とりあえず『二編』に行くことで落ち着くと、目の前の紀伊馬チナツに訊く。
「紀伊馬さん、やっぱり行くんですよね。編集部に……」
やおら、紀伊馬チナツのほうを振り向くと、俺のすぐ隣でIDカードを両手で掴んでガン見しているので驚く。
「ええ、この太陽系出版社の第二編集部というのが『悪の巣窟』ですわね。苦しんでいるぶたにん・馬丘を搾取している心ない人たちを、一人残らず懲らしめてやりますわ」
話しぶりは熱いが、だだっ広いベントレーの車内で妙に距離が近く、紀伊馬チナツからシャンプーの薫りまで漂ってきて、俺は顔を真赤にしながら、首を竦めて身体を車の端に寄せる。
しかし、このまま彼女が『二編』に行くと言うなら、話が早い。征次編集長なら、大人だし、上手く理由を説明して事態を収めてくれそうだ。
「はあ、それじゃあ、俺は、先に第二編集部に電話でアポ取っておくので……」
「ぶたにん・馬丘、その電話に、日本言論人の未来がかかっていると心しなさい」
いや、『二編』にそんな重大なものをかけるなんて痴女を通り越して、キチ◯イに近い。妙に緊張感を煽る彼女を尻目に、俺は、社会人生活3ヶ月目の余裕を感じさせるよう電話する。
「お疲れさまです。わ、わたしは、ぶたにん・馬丘・武谷……なんです」
かんだ上に、痴女のぶたにん・馬丘が伝染ってるじゃん、俺。
「武谷さん……ですね。名前はどれか、一つでいいですよ」
電話の向こうの声は鷺森さんだ。俺は安心して状況を訊く。
「あ、あの鷺森さん、編集長か、川絵さん、いますよね」
「ええ、いえ、先程まで二人でこちらにいらしたのですが、今は見えませんね」
「そ、そんな。それじゃあ、他に編集部に誰かいませんか?」
「そうですね、サポートブースに鮫貝さんなら、いらっしゃいますが」
なんで、こんな時に鮫男しかいないの?
と言うか、鮫って先月限りで辞めたんじゃなかったっけ?
黒塗りのベントレーは、勧善懲悪にときめく天然痴女の紀伊馬チナツと、不安に慄く俺を乗せて、中央道を一路、東に進んでいた。